今月の特集題 闇の中に光が
主イエスにねがいを 星にねがいを 澤木八重子 |
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階段を忍び足で上がってくる足音で、ふと目が覚めた。(何だろう) 内心の不安を押えながら、そっと廊下への戸を開けると「獅子座流星群、寒くないようにして見てごらん」と長男の声、廊下から三階まで携帯椅子を運んでいるところだ。時刻は 19日の午前二時半、私は(あゝそうだった)と気付き、途端に、セー夕−や、コートを着込んで家の前の第三公園に降り立った。見上げれば青黒い夜空に北東から南西へ、大小明暗さまざまの星が帯を流すように煌き煌く。私は、「ほっ」と声をあげで再び見上げると、自分の方に向かってくる金の光「あっ流れ星」。それからは、南から西からと続いて金の失が飛んでくる。ディズニーの、「星にねがいを」のメロディを思い出し、流星の瞬間に唱えようとしたが間に合わない。次の流星を待ち、東から向かってきた星に「越谷に平和を」と心で祈った。第二、第三の流星には、「日本に平和を」「 世界に平和を」と。見上げる首が、痛くなってきた。 昨年行った佐渡ケ島や、オレゴンの夜空は満天の星が見られ安堵した。日本の空も晴れている時は満天の星空が眺められるようになってほしい。 二千年前、ヨセフとマリアは、戸籍登録のため、ガリラヤの町ナザレから故郷ユダヤのベツレヘムへ戻る旅先にあった。身重のマリアは出産間近だったが旅を続けなけれぱならなかった。宿屋はどこも混雑しており温かい部屋は、すでに他の旅人たちで埋まっていた。宿屋の主人が最後に案内してくれたのが、厩であった。主イエスは、はからずもここで誕生されたと聖書に記されている。 主イエスの誕生をマリアとヨセフしか知らないはずなのに、すぐに羊飼いや三人の学者たちがやってきてみどり児を祝福した。人々は、どうやってだれも知らない主イエスの誕生をさとったのだろうか。 主イエスの誕生をいちはやく天使たちが祝福し、遠くから星をめざしてやってきた学者たちや柔順な羊飼いたちと喜びを共に祝福すべく、導いたのだろうか。 二千年前、イスラエルの満天の星空のなかから、ひときわ輝く星がかがやき長く尾を引いて流れ導くところに主イエスの誕生の地が、あったのであろう。(ルカ2・1〜20) (さわき やえこ)
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喜びにあふれて 土屋恵子 |
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1999年9月より、キリスト教保育園の保育士として10年ぷりに保育に携わることが与えられ、0歳児のかけがえのない命の守りと大切な成長の育みに関わる喜びと生きる希望にあふれています。私の中で暗闇の中にあってもその先は苦しさや悲しさではなく、小さな子どもたちの命を見つめ通して、明るい光が見えています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ1 5・16〜18)このみことばにいつも励まされ、主日の礼拝で力強いみことぱを語る石橋牧師先生に押しだされて、新しい一週間を歩いていくことが許されていることに感謝しています。そして明るく笑顔で日々過ごすことができるのは私一人のカではなく、職場においても励まされ支えられ力づけられ賜物を生かし合うチームワークがなければ、よりよい保育はなされず、まだ弱く自分の力では生きていくことのできない0歳児の幼な子たちからこぼれるような命のかがやきと、日々のたゆまぬ大きな成長を見せられ、私が、気づかされて生かされていることを実感しています。だから今はとても明るく元気で笑顔でいられるのです。先日お散歩へ行き、秋の青空に黄金色に色づくプラタナスの木を見上げて、すがすがしい気持ちになり、ふと子どもたちを見るとどの子も空を見上げられるようになっていて、小さな手をたたいている姿を見て、喜びいっぱいになりました。職場の先輩に、食事が体の栄養であるのであれば、散歩は心の栄養ということを教えられ、私の中でそのことばがひびきました。子どもに関わる保育者としてではなく、まず一人の人間として、子どもたちの前に立つものにふさわしく、私自身がしっかりと立ち、感性を磨き、神さまの恵みによって生かされていること、こんな私でも受け入れて下さっていることを実感して、信頼して感謝と喜びをもって生きていくことができるようになるよう励みます。そして、これからも心おどらせて、探求して、時に涙することがあっても、受けとめて、ゆっくり時間をかけて、前向きに考えていきます。 そしてもう一つの私の支えは家族です。朝から夕まで充分に仕事ができるのも、家族の愛があるからです。私はここでもまた励まされているのです。悲しみ苦しみは心に深くあり消えることも癒される時間もたくさん必要です。でも目の先は光がさしています。病床にいた亡夫は、苦しさも悲しさもことばにせずいつも笑顔で私たち家族に「ありがとうと言ってくれました」。 (つちや けいこ)
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神よ、み心のままに 永野昌三 |
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三浦綾子氏の『旧約聖書入門』(光文社)を読みました。平明にして簡潔に書かれているために、読みやすく、私はたすかりました。一読してみますと、三浦氏がどういう聖書の読み方をされているか、また、どういうところに関心があるのかが判り、実に楽しく読了することが出来ました。 私は「聖書」に関する解説書や研究書の類はあまり読まない。誇れることではないが、そのことが、かえって、三浦氏の作品を新鮮に読むことが出来たのかも知れません。 『旧約聖書入門』の中で、次の箇所は、殊に怠惰な日常生活をしている私の心に訴えてきました。 『旧約にせよ新約にせよ、聖書というものは、自分の生活の中で(自分ならどうするか)(自分はどうすべきか)を問いつつ読むべきものであると思う。でなければ、聖書が真に面白くなることはない。つまり、聖書の深みがわからないのではないか。真の光がわからないのではないか。真の光に照らされた時、わたしたちは闇から光に移される。』 上の引用部は、さらに、三浦氏の言葉でいえば、「自分の都合が中心」で、生きている人と、「神中心」に生きる人とでは、聖書の読み方がおのずと違って来るはずである。それは、当然「神中心」の生き方がよいのであるが、私にはむつかしい。 そのうえ、独りになって考えることもまたむつかしい。現代は独りになる時間がない。私たちは実に多忙で、そのためにあっという間に一日が終わる。それもなにものかによって、急がされて生きている。 三浦氏の考え方からいくと、日々の多忙のまま、聖書を読めぱ「聖書の深みがわからないのではないか。真の光がわからないのではないか。真の光に照らされた時、わたしたちは闇から光に移される」ことも、見逃してしまう恐れがあるのではないかと私は思うのである。 勝手なことをいいながら、私自身も、なさけないことに、気づいて見れば、「自分の都合が中心」で生きている。これではいけないと思いながら、なかなか「神中心」に生きることが出来ないことを知らされる。 三浦氏はこうも述べている。 「信仰とは、すなわち従順ということだと思っている。神の命令であれば、神の欲し給うことであれぱ、神のみ旨であれぱ、喜んで神に従う、これが信仰ではないかと思うのだ。」という。 私は四面楚歌になって、神に祈る。神よ!み心のままにと……。 (ながの しょうぞう)
越谷教会月報みつばさ2001年12月号「闇の中に光が」より
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