今月の特集題 古い私と新しい私

                      新しくされる     古澤ひかる

 

難しいテーマをいただいてしまい正直いって戸惑っている。まずは単純に、最近私にとって新しいことは何かを考えてみた。

子どもが生まれたので長年勤めていた会社を辞め、専業主婦になったこと。子どもを通じて新しい友人ができたこと・・・

だがなんと言っても最近のトップニュースは越谷教会に転会したことであろう。教会が自宅に近くなり、教会生活はがらっと変わった。清水姉も書いておられたが、礼拝が終わって自宅に戻りゆっくり昼食をとることができる。それまで毎日曜日、バスと電車を乗り継いで片道1時間半かけて通っていた身にとってこれは大感激である。そして神様の御言葉はもちろん変わらないが、御言葉を語ってくださる先生、また一緒に礼拝をまもる教会員の方々のお顔もがらっと変わった。

このように周りは新しくなったが、自分を省みるとどうか、1歳の息子を見ていると、毎日色々なことを発見し吸収しているようだ。ハイハイする、立ち上がる、歩く・・・と新しくできることがだんだん増えていく。それに引き換え自分はどうだろう。この歳になると運動機能的に新しくできることなど大して無くなる。子どもが成長する一方で親は衰えてゆくばかりではさびしい。

 聖書の中で「新しい」という言葉が出でくる箇所としてニコデモの話が最初に頭に浮かんだ。もちろんこのテーマにもっと相応しい箇所が他にたくさんあるであろうが、真っ先に思い出したのはきっと、ドイツに少しの間だけ暮らした時に所属していた聖歌隊で、ある現代作曲家による「イエスと二コデモ」という合唱曲を歌ったことがあったからであろう。現代曲だけに独特なハーモニーであったが、私にはとても新鮮で、歌詞とともに記憶に残っている。

ニコデモが主イエスから「あなたがたは新たに生まれねばならない」と教えられる。「年をとった者がどうやっで新たに生まれるのか」と問い返すニコデモに主イエスは、水と霊とによって生まれなければならないとお答えになる。ということはイエス・キリストを主と告白した私たちはもう既に新しくされているのである。古い私とはとっくの昔に別れたはずである。いくら身体が古びようと御言葉をいただき続けるならずっと新しくいられるのである。

子どもの成長にあわせてというわけにはいきそうにないが、自分も信仰的に少しでも成長できるよう祈りつつ、この1年日々心新たに過ごしたいと思う。

 (ふるさわ ひかる)

 

聖餐式って こういうことなの 「かなぁー・・」 小幡 正

 

夏の毎日、水や飲物をつげばついだだけ一気に全部飲み干してしまう。もう一杯つぐとそれもアッと言う間に飲み切ってしまう。コップ半分を後に残すということが苦手なのだ。この水を飲む者は誰でもまた渇く、というヨハネ4章のイエス様のみ言葉を思い出す一瞬。

聖餐式でぷどう酒をいただく時、この章のサマリヤの女のことを色々と思い出したりする。聖餐式、それは自分にとって何物にも代え難い時間。どんなに勝手気まま・欲しいままに放縦の極みをつくした毎日であっても、サマリヤの女のように、そんな毎日とは180度違う方向を見るものとされる、そんな時間なのだ。

故郷の仙台の大学をみな落ちてこちらで暮らし始めても教会に来られたのは、両親や幼稚園・CSの影響なしには考えられない。ごく自然に礼拝に通いそして受洗したような感じがして、「明確な新生経験」とか言われると、う−ん…、とウナってしまう。

でもハタチになった翌々日に洗礼を受けて、初めて聖餐式でパンとぶどう酒をいただいた時の、胸の奥から湧いて来る喜び、ウマく言えないけど、指先までしみ渡って目尻から耳の方まで伝わるような大きな感動は、今でも忘れることができない。

今回編集委員の姉妹からこの原稿用紙をいただいた時も「古い私と新しい私」か−、ウーン…、とウナってしまった。困った。自分に書けるだろうか。ほかの誰よりも目分はこのテーマには不適格だと思った。しかしこの、ほかの誰より、ということが不思議に心に引っかかって、これはもしかしてイエス様が、おまえが書きなさい、そんなおまえだからこそ、書きなさい、と言われているのではないかという気もした。

なかなか「新しい私」として歩むことができない毎日。「古い私」が日常生活の中にこんなに残っています、ということを書けば何ページあっても足りない。どう書くか悩んだが、今の自分に書けるのはコレしかないと思い至った。

22年前、小海牧師に「そろそろ洗礼を受ける気持ちはありませんか」と言われて、今思うとあまり深くは考えなかったが、多くの先輩達がいたおかげで迷わず「はいお願いします」とお答えした。その素直な魂の新品の革袋は、今ひどく古びて、聖餐式ごとにいただく新しいぷどう酒は台なしになっていないか。しかし毎日ヤコブの井戸に通い続ける自分が新しくなるために、イエス様のぷどう酒を絶えずいただきたいのだ。

(おばた ただし)

 

わたしは貧しく (詩編70・6)  奥田尚子

 

人の一生は、時の進むに従って工スカレーターに乗っで確実に上へ送り込まれるようなものではない。山道を登るように、時には足場の悪い細い道を、時には石のごろごろした坂道を、うんと足を伸ぱしても届かない次の足場に、傍らの木の根に掴まりながらやっとの思いでたどり着くような険しい道を行かねばならない時期もある。しかもそんな時に限って誰も手を貸してくれない、孤独の中で進むしかない。

また、思いもかけぬ道が開けて、予期しなかった新しい生活を強いられることもある。私のシンガポール生活がそうだった。それまで夢中で没入していた教会や子育てや仕事の全てを手放して、未知の生活に飛び込まねばならなかった。未練も執着もあったけれども、それを捨てねばならなかった。

夫は内心、「単身赴任して欲しい」と私が言うのではないかと不安を持っていたらしい。その時私の中には 「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」 (エフェソ5・22)の御言葉が聞こえていた。

シンガポール滞在の5年間、 私はその御言葉を事ある毎に聞いていた。夫が私の助けを必要とする時、自分の予定は即キャンセルして従った。日本にいた時は夫にとって如何に我侭な妻だったかを痛感させられた。

帰国と同時に夫は定年退職、四六時中一緒にいる生活が始まり、長年サラリーマンの妻という気楽な日々を過ごしてきた身には、正直言って窮屈この上ない毎日となった。以前の私の日常がどんなだったかを、一つ一つ説明して納得してもらい、我慢出来るぎりぎりの線まで妥協して貰うのに一年あまりかかった。今年で丸三年経つが、自分の生活の密度が昔程濃くないことに自分では不満だけれど、一方、ゆとりをもって物を見る、他者の視点で考える訓練になったと思う。

「知識人の一番の欠点は自分にとって大切なことは、だれにとっても大切だと思い込むことにある。」これは先日新聞で読んだ、塩野七生氏の言葉であるが、同感である。四十代、五十代の体力も気力もある時は、自分の思う正しさを人にも押し付け、もうしん(盲信&猛進)してきた。それは周りを動かす機動力になり得るから悪とは言えないかもしれない。だが別の視点で見ると「人間は誤りを冒すもの」、ゆったりアバウトがいいじゃない?と昨今思えるようになった。ただ一つ、神の愛を信じている限り。

 

(おくだ ひさこ)

 

 

越谷教会月報みつばさ2002年1月号「古い私と新しい私」より

 

 

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