今月の特集題 祈りの輪が広がって

 

山越え谷越えの歩みの中で

共に祈り合いたい   筑紫秋智恵子

 

当時、小学一年生だった息子が、交通事故に遭いました。複雑骨折で右腕が動かなくなると医師に云われました。絶望の谷底に突き落とされた私は、手術室の戸の前に座り込み声を出して祈りました。

ナースに注意されても移動することなく、手術が終る迄、涙して一人静かに神に向って祈り続けました。

担当医より、「手術が成功したので、長期のリハビリで徐々に良くなるでしょう」と聞いた時、私の祈りが神に受け入れられた実感に喜び感激し、感謝の祈りを捧げました。

思えぱ、手術室前での祈りは、苦難の中での叫びの祈りでした。

其の後の私は、祈る生活を続けるようになりました。山越え谷越えの人生の歩みの中で、大きな試練の中にある私に、「試練に耐える人は、 幸いです」(ヤコブ1・12)の 御言葉を、神は、与えられました。 御言葉に慰められながらも、神にしがみついて、救いの道が与えられることを求めて祈っている私です。

イエス様のゲッセマネの祈りには感動します。イエス様御自身が、心を騒がせる程悩み悲しんでおられたのに、最後には、「御心のままに」 (マタイ26・39)と、祈られました。私の祈りは、願いを求め、救いを求めるばかりで、一度も御心のままにと祈ったことはありません。 これからは、全てを、「神の御心のままに」と、委ねた祈りの生活をし続けたいと願っています。

今は、神の家である教会に、居場所があり、罪深い私を受け入れて下さる喜びに感謝しています。

礼拝の中で、牧師の祈り、司会者の祈り、当番者の祈りに、神の御心を知り、主の御声を聞くことがあります。そして、御言葉が与えられるのです。「キリストの力は、弱さに宿る」(コリント2 12・9)

今後も、私は、神に向って祈ることしか出来ない者ですが、自分が一番苦しい時こそ、主が抱いて下さっていることを確信して祈りを捧げてゆきたいと思っています。

讃美歌312番の 「心の嘆きを包まず述べて」「祈りにこたえて慰めたまわん」「祈りにこたえて労りたまわん」を賛美して、神中心の生活をし、常に祈る者として、歩みたいと願っています。

教会では、月末に、祈り会が開かれてます。共に祈り合っています。

祈りこそ、教会の力だと信じています。祈りによって支え合える 信徒であり、「主の祈り」を毎日祈れる信仰者でもありたいと思います。

 (つくしあき ちえこ)

 

     祈りの輪を世界に     荻田久次郎

 

以前に頂いたシャロンのぱら伝道所発行「祈り」の飯窪信弘兄の冒頭文の引用から始めさせて頂きます。

「キリスト者にとって祈りとは神様との対話であり、空気を呼吸するようなものだ。キリスト者は祈りによって生かされている。私たちは苦しいときや悲しいときだけ真剣に祈り、普段はおろそかにしてしまっている事を懺悔するものです。」常日頃から祈りの少ない私自身ここに告白と懺悔を致します。

信仰には常に祈りが伴っていなければなりません。一人で祈る事も、家族で祈る事も、教会内で牧師先生、代表者の祈りに合わせて祈る事も、時と場所と誰とを問わず神様に祈り感謝する事が信仰を強める事になります。「絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(口語訳エペソ人への手紙6・18)との聖句があります。

すべての聖徒を地球上の全人類と理解し互いに祈り合い、その輪が全世界に広がって行けば世界の平和、人類の平和が、必ずや、もたらされる事と信じます。

私自身の祈りと言えぱ毎日の通勤時、一日のスタートの感謝の祈りを捧げております。越谷教会外での祈りとしては、所属しているギデオンの兄弟姉妹と共に教会メッセージや聖書贈呈、月例会時に共に祈りを捧げます。その他の機会は、趣味である旅行の際に日曜日は現地訪問先の教会の礼拝に参加する様にしております。

最近訪れた教会としては今年1月27日ハワイのバプテスト教会、バイプルクラスと礼拝に出席し礼拝前に牧師より全会衆に紹介され大歓迎を受けました。礼拝後もハワイ以外からの参加者とも親しく会話する事が出来ました。1月5〜6日には那須のカトリック、シトー会の修道院に1泊2日、妻と妻のEメール友達と宿泊しカトリックのミサを昼、夜、朝の三回出席した後、日基の西那須野教会の主礼拝に参加しました。

昨年12月には四谷のイグナチオ教会の教会音楽祭、10月には秋津のカトリック修道院でのエバンジル会(聖書を仏語で親しむ会)の合宿(早朝ミサ有り)、7月にはシドニ−のカトリック教会、他にはパリのノートルダム聖堂、ローマのサンピエトロ(バチカン)パウロU世のミレニアム記念ミサにも参加しました。カトリック、プロテスタント、各宗派を問わず、礼拝、ミサに参加し会衆と共に世界の平和と共存共栄を祈り日本国内、全世界の兄弟姉妹と祈りの輪を広げたいと思います。

(おぎた きゅうじろう)

 

自分の居場所     江原史雄

 

教会の将来のビジョンを語る、という場が先日もたれた。その中で、教会に若者(高校生)が、少なくなってしまっているという現実が、話題になった。その時に思わされたことを、書かせていただこうと思う。

教会に、若者が来てもらうために、若者の居場所を作るということ、又そのために高校生を知るということが、問題となり提案された。

そのとおりだと思った。しかし、それと同時にもう一つの思いが心に浮んだ。それは、自分自身を知ると言うことだった。

高校生を知るということが、教会の一つの目標のようにかかげられる時、私が一番最初に感ずることは、自分にはできない、という思いが、まずドーンとせまってくるのである。

今回のことだけでなく、上からの権威の言葉として語られる聖書の言葉、又そこからくる教会の目標、そのような何かが自分をしばり、それに合わない自分を喜べなくなってしまうという傾向が、私にはあるのである。(これは私だけだろうか)

しかし、その時に、主にあって自分は、何者なのかということを知ることが大切なのだと思う。

パウロは言う、私達は各々、頭なるキリストの肢体の一部であると。

自分は、手ではないが、目であるかも知れない。そして主から、「お前は、尊い私の目だ」と言われていることを、しっかりと受けとっていくことだと思う。そして、それぞれの違う肢体が、頭にしっかりとつながる時、体全体が、キリスト様の霊の支配の中に置かれることと思う。その時に教会は、人間の生れながらのカによってではなく、私たちのそれぞれの弱さの中にこそ完全に働いて下さるという神のみわざがなされる教会となると思う。そのために、自分は何者なのか、ということを、いよいよ知らされていくことを願っていきたい。そして、自分の限界を知らされる時、その限界にこそ、キリスト様が働いて下さっていることを知っていきたいと思う。

そういう意味で、自分を知ることこそ、教会での自分の居場所を知ることだと思う。

他の誰々のようにでなくていい。自分の本当の居場所が教会の中にある時、又若者の居場所も教会の中に、おのずと、見えてくるのではないだろうか。自分が居ずらいような教会であるなら、誰が居ごこちよく教会におれようか。自分を知り、自分の居場所を知ること、このことからいつも、はじめていきたいと思う。

(えはら のぶお)

 

 

越谷教会月報みつばさ2002年3月号「祈りの輪が広がって」より

 

 

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