今月の特集題 信仰が揺らぐ時

 

                      毎日揺らぐ信仰       福田尚生

 

  昔、昔、そのむかし、年齢的に若かった頃、信仰的に若かった頃、

・自分が、信じている

・自分が、教会に行く

と、確信を持っており、この信念さえ崩れなければ、信仰が揺らぐことなどあり得ないと思っていた。

礼拝をはじめ、教会のあらゆる集会・行事にほとんど出席し、礼拝を欠席すれば自分を責め、出席すれぱ安心する様な信仰生活を、あたりまえのものとして続けていた。全て、自分が中心の信仰生活、張合いもあったが疲れもした。

海外での生活、国内で転居した地域に教会がない生活を通して、しばらく教会と離れていた時代、あれほど自分で信じていたはずが、いつの間にか忘れている日々が続いているのに気付き、自分は一体何をしているのか、これで信仰があると言えるのかと迷う時期がありました。

幸いに、次の転居地で教会に恵まれました。年齢的にも、信仰的にも年を重ね、変わりました。

・自分が、信じるのでなく

・自分で、教会に行くのでなく 

主に導かれて信じることが出来て、招かれて教会に行くことが出来るのだと、主がおられるので信仰が揺らぐことはないと信じる様になりました。

でも、最近は本当に揺らぐことはないのか、不安になることがあります。あのヨブでさえ、サタンの試練に苦しめられた最初は、主をほめたたえ神を非難することなく、罪を犯さなかったのに、終いには神を呪う様になってしまいます。

今の自分は、信じさせていただいております。招かれて礼拝にも出席させていただいております。でも、サタンの試練に遭ったおり、揺らぐことのない信仰を持ち続けることが出来るのか不安です。

言い換えれば「信仰が揺らぐ時」とは、私の場合、毎日のことではないかと思います。

その不安な毎日の中で、出来ることと言えば「こころみにあわせず悪より救い出したまえ」と祈り、なんとか信仰の揺らぎを押さえて、主の導きを確信する外ありません。

(ふくだ ひさお)

 

     一粒の麦         菊地孝枝

 

目を閉じてこれまでの歩みを思い巡らす。青い海の見える波打ち際から続く大小のジグザグ、ポツンポツンと真っすぐな道もある。自分の意識の中にある時ない時、数えきれない程の揺れがあった。

信仰が揺らぐ要因は、病、災難、人間関係、内なる問題等いろいろあると思う。私は、人間にはどうすることも出来ない厳しい気候と奥深い山の自然の中で育ったせいか、自分の置かれた境遇にすぐ順応してしまうところがある。しかし、あれ?と思った事は自分なりに納得しないと前に進めないところもあるので、私の信仰の揺れは内なるものが多かったように思う。

十数年前のまだ求道者だった頃、ある家庭集会で石橋先生が「相対的な関係ではなく絶対的な関係の中で生きたい」と言われた。あの時、神さまの事も十字架の意味もよく解らなかったが、不安定な社会の常識とか価値観を基準にして、比較の中に生きる事はやめたいと思った。しかし現実には、出来る出来ない、分かる分からない、関係の中から生まれる孤独や羨望や妬みなど、神様との関係を疎外した、相対関係の中で振り回されることが多かった。

出来ない事を出来るようにする努力や諸々の人間の感情は、私達が生きていく為のエネルギーでありとても大切な事だと思う。しかし、努力や深みにはまってしまった感情が、とらわれしがみつきと化してしまった時、それを見極める目と神様の前に立つ姿勢が問われてくるのではないかと思う。

越谷教会ではコリントの信徒への手紙を学んで来た。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との御言葉がある。弱さ、破れ、罪が、キリストの光に変わる時、とは…。

神様が働いて下さる事を信じて祈る。そして私は、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねぱ、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12・24)この御言葉に従いたいと願う。

「とらわれ、しがみつき」は、どうしようもなく体にまとわりついてきて、自分にとって最も大事なことに思える。御言葉と罪との葛藤に行き場がなくなる、苦しくなる、祈る。すべり台を逆方向からかけ上がるように、何度も何度も押し戻される。しかし、この祈りの中で、「手放し難いものを手放せた時」明るい光が射し込んだ。

これからも信仰は揺れるだろう。でも、あの、自由でやさしい清々しい風を知っているから、十字架の下にたたずんでいたい。

(きくち たかえ)

 

他力本願     荻田香世子

 

「イェスさま、ちゃいアーメン」言葉を覚え始めて片言で祈りながら食卓についた。親戚中どちらを向いてもクリスチャン。幼稚園・中学高校とミッションスクールの柵の中で守られてきた。その世界しか知らなかった。そんな中で育まれた信仰は、確固たる信仰であるはずがなく、ふらふら揺れ揺れの、いまどきの言葉で言うなら”なんちゃってクリスチャン”というようななんとも頼りないものだ。

いつも神様は近くにいて下さる=神を求めなくても大丈夫。つまり強く祈らなくても、強く願わなくても、神様はいつも私を見ていて下さり、私の一番良いように導いて下さるのだ、神様に任せていればどうにかなるさあ……なんて、なんと虫の良い考えなのだろう。強い信仰を持って教会にみえている方々から見れぱ、なんとももどかしく歯がゆく、飽きれておられることだろう。

教会の皆様の神との出会いによる信仰告白を伺うと、その度に尊敬の念を抱き、私の心はちくちく痛む。苦悩の内にある時、揺らいでいる時、そして、他の人の気持ちになって真剣に神に祈る教会の方々の姿を拝見する度に、信仰の薄い自分が恥ずかしくて仕方なくなる。「どうしてこんなに真剣に神について学び、救いについて考えることができるのだろう!」と心を打たれるのである。

最近E-mailを通じてクリスチャンの友人が沢山与えられた。北海道・室蘭教会の牧師夫妻から、南は沖縄、イギリスのエディンバラで単身日本語伝道を続けている女性などで、カソリック教徒もいれば教団の人たちもいる。職業も年齢もまちまち、勿論考え方もいろいろの人達である。神について、奉仕について、宗教芸術について、また世界情勢について、はたまたヒンズー教やイスラムの話など活発な意見や話が送られてくる。キリスト教を追い求め、そこに根を下ろしていても、常に周りに目を向け、広く学ぽうとする姿勢が窺えるのである。そんな彼らの影響か、私も最近少しずつ他の宗派の礼拝にも参加して視野を広げてみている。またキリスト教の深い歴史や宗教音楽にも興味を感じ、これから勉強していきたいと思ったりしている。

信仰告白にも「聖徒の交わり」とあるが、色々な方々との交わりを通して教えられ、育てられ、私のこの不安定で揺れた信仰が、少しでも主の真っ直ぐな道に近づけるよう努力していきたい。ほらまた、他力本願のような気もするが……。

 (おぎた かよこ)

 

越谷教会月報みつばさ2002年6月号「信仰が揺らぐ時」より

 

 

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