今月の特集題 世界の現実と私の現実

 

聖書こそ世界の現実     江原二三子

 

この夏、アメリカ、フロリダ州のオーランドで、UMJCという大会に出席させて頂いた。ユニオン・オプ・メシアニック・ジューイッシュ・コングリゲーションというこの集いは、ユダヤ人キリスト者の集いである。

アブラハム、イサク、ヤコブからはじまりダビデの子孫からイエス様が生まれ、ペテロやヤコブら十二弟子、パウロ…と聖書はユダヤ人によって語り続けられ、神様の契約も彼らを通して与えられた。が、異邦人の信徒が増えるにつれ、彼らの保ってきたユダヤ性が否定され、教会から削除されていった。しかし福音のユダヤ性はイエス様においても、聖書全体においても否定されてはいない。

彼らの国土、風土、生活スタイルを学んで初めて明らかになる聖書理解が沢山ある。日本人の生活習慣の背景があって初めて分かる事柄があるのと同じだ。「祭り」はその最たるもので、神様は「その時を覚えなさい」と私達に永遠の定めとして力レンダーを与えてくださった。これはユダヤ人が定めた時ではなく聖書によれば、神様が定めたカレンダーである。

パウロも祭りは来るべきものの影であって本体はキリストであると言っている。影を見ると本体の形が分かる様に、祭りを見るとイエス様がどのような御方かが分かるのだと思う。

ユダヤ人信者と共にイエス様を礼拝する時、私達が、彼らに与えられた契約に、神様の憐みによって接ぎ木され、彼らと共に相続人とされたのだと、聖書の約束をはっきりと覚えさせて頂く。

なぜ彼らは自らをクリスチャンと称せずメシアニック・ジュー(メシアを信じたユダヤ人)と言うのか。長い間教会は、ユダヤ人にはキリスト殺しの罪があるとし(本当は私の罪の為にイエス様は十字架で死んで下さった)、十字軍からホロコーストまで恐るべき迫害をし続けてきた。

その中で、ユダヤ人がイエス様を信じるにはユダヤ人であることを捨てなければならない事を押しつけてきた。けれども日本人がイエス様を信じても日本人であるようにユダヤ人もユダヤ人のまま救われるのである。

その事を彼らの同胞に伝える為にもあえて自らをそう呼ぷのである。

彼らを見る時、聖書は丸ごと真実であり、神様は最後まで歴史を支配しておられる事を知る。聖書こそ世界の現実であり、私はその歴史の一部分に生かされているのだと思う。

(えはら ふみこ)

 

 

アルゼンティンの現実と日本の現実   雲見昌弘

 

2000年3月から二年四力月、アルゼンティンに駐在した。アルゼンティンは、日本の丁度裏側に位置する南米の大国である。独立は1816年。主として、イタリア、スペイン、フランスからの移住者によって作られた国であり、首都プエノスアイレスはヨーロッパの面影を残した美しい街である。国民の教育水準も高く、一人当たりの所得も8000米ドルと中南米では一番豊かな国であった。少なくとも昨年末までは。日本の7倍の国土に人口はたったの3600万。広大なパンパの草原に放牧される牛の数は5000万頭。石油、ガス、大豆、小麦などが輸出できる豊かな国であった。

それが今では、国そのものが倒産した状態となっている。通貨のペソは昨年末来、3分の1に下落し失業率は40%を超え、街角はゴミ箱を漁る人が目につくようになり、ストや対政府抗議行動が頻発する物騷な国になり下がっている。

何故か。現象面では、中央や地方の政府が外国の金融機関から借りた資金を返済期限が到達しても返済できないということなのだが、このような経済危機が過去に何回となく発生していることから推し量ると、原因はもっと社会の根幹にありそうである。

この国では第二次大戦後、ベロンという軍人により社会主義的施し政策が採られていた時期があり、国民も常に施しを政治に期待しがちになっているフシがある。政治家も財政を顧みず、目先の選挙に勝つために、大衆受けする施し政策を掲げ実施し、その結果財政赤字が急増するというパターンである。政治家は国の将来というよりも、自分の利益や、彼を取りまく一部の人々の利益のために行動する。

何だかこれ、我が日本のかなりの政治家にも当てはまることではないか。道路公団の累積債務問題や、郵政民営化問題に対する一部の族議員の動きを見ていると、アルゼンティンにおける政治経済の混乱を対岸の火事として看過できないように思えてくる。政治家に野心は不可欠だろうが、それに加え、高い見識と倫理観を兼ね備えることも必要である。アルゼンティンでは政治家の汚職も多く、国民の多くが政治家に対し拭い難い不信感を持っている。我が日本も同様である、いくつかの類似点がある両国ではあるが国の破産だけはお付き合いして欲しくない。

(くもみ まさひろ)

 

 

居ながらにして      一柳民恵

 

井の中のかわずと言うことわざがありますが、これだけめまぐるしくニュースが飛び込んでくる時代の中で、ちっとも変化なく、毎日、前後左右の処理だけで手一杯と言う自分を見ると改めて驚いてしまいます。

どんなに息せききって、駆けずり回っても、それがどうしたの?と言う世界にいるのです。

この間、8月16日〜20日迄、韓国の啓明星教会の方たちが来られた時のこと、わが家にも6人の少年がホームスティしてくれました。

教会の皆様もあんなにまとまって働かれ、越谷教会ってすごいな−と思わされました。一人じゃ何も出来ないけれど知恵を出し合って頑張るとすごい力になることを学びました。

居ながらにして、韓国の方たちの熱気と、キラキラとした少年たちの目に触れて、生き返った数日でした。田坂さん夫妻が彼らのお世話を引き受けてくださり、わが家は三晩とも大にぎわいでした。ほとんど言葉も通じない中でも、トランプとウノを使ってみごとに交流しちゃいました。

一人、人なつっこいチェ君はワンパクさんで二日目の夜のこと、台所で翌朝のサンドイッチを作っている私のところへ一人こっそりと来て、階段の所から私に「アイスクリーム」とねだって来たのです。すでに、カップのアイスを食べた後だったので「お腹が痛くなるといけないから」とジェスチャーするとノォノォノォノォノォと指で打ち消して「アイスクリーム」と迫るのです。しかたなくスティックの小さいのを一本出して「シーょ」と渡すと、ヤッターという顔をして私の脇でうれしそうに食べてから満足げにみんなの方へ戻りました。

何でこんなに自然体で気を許してくれるのと、これまた驚きでした。

すっかりわが家の子ども達になってしまった彼らを、19日の朝、教会に送って行き、一行は箱根に行く筈のバスに乗り込みましたが(台風で都内泊り)我がホームスティの子どもらはどこに乗っているかと、一人ひとりさがしている中で一番後ろの座席に白いガーゼのハンカチを広げて顔に当て何のためらいもなく泣いているチェ君にはまいりました。

かつて、韓国の方々には悲惨な思いをさせてしまった歴史がある中で、肌をつき合わせて交流が出来たことは本当にうれしいことでした。

まさに全て、神様のわざですね。

さて、ボーッとしていないで、私も皆さんとご一緒に平和の働きをさせて下さい。

 (いちやなぎ たみえ)

 

 

越谷教会月報みつばさ2002年10月号「世界の現実と私の現実」より

 

 

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