今月の特集題 主こそ砦の塔

 

 

 

祈り         高品幹男

 

  まことの光でいましたもう、全能の父なる神様、今日もわたしたちを光のもとへと招いてくださり、心から感謝します。少しの暗いところもない主なる神よ、心に暗いところを持ち、その行いが明るみに出されるのを恐れて主の前に出ず、顔を上げるのをさけて生活している現実を思い、深くざんげします。どうかみ子の十字架のあがないによって、主のみ前に立ち、祈りつつさんびする者とならせて下さい。

 主を恐れず、主イエスの愛をあふれるばかりにいただいて、主の十字架の赦しのもとにある自分自身を、主に愛されている自分を、再発見できますように助け導いて下さい。

 主こそ、まさに暗闇を打ち破るまことの光です。光をおおってしまう黒い雲が発生して真実をかくし、いつわりの愛をはびこらせないように、どうか主よ、強い風となって立ち上がり悪とたたかってまことの光を、全ての人々があおぎ見ることが出来るようにしてください。

 2002年はわたしにとって最悪の年でした。会社の縮小により突然の解雇を言い渡され、自分自身を失い、途方にくれた日々でした。しかし、そのとき教会のみなさま、わたしが所属している聖歌隊のみなさまが温かいはげましの言葉によってわたしをふるい立たせてくださいました。みなさまにお応え出来る人間になるべく、天にあるもの、地にあるものと共に、父なる神様、十字架のイエスのもとにつどい、み言葉を聞きお祈りし、さんびできることを感謝します。

 2003年が互いに助け合い、いつくしみはげまし合って、共に一歩一歩前進し、主に依り頼むものとなり、どんなときでもいつくしむ心を変えることなく、なぐさめ合って、まことの光をあおぎみることが出来る年としてください。

 どんな時でも主に赦され守られていることを忘れることなく歩んでゆけますようにお支え下さい。

(たかしな みきお)

 

向かえ、前に、上へ     田中昌光

 

みつばさ219号に「他力本願」 という題で0姉の麗筆が寄せられています。真摯にして微笑ましくもある証しです。他力本願といえば、 親鸞聖人の歎異抄が心に浮かびます。これは弟子の唯円(ゆいえん)が親鸞の没後 30年ほどして聴聞した事を書き綴ったものです。新約聖書や論語も弟子達によって書き残されたことを思うと興味ぶかい。歎異抄は日本の宗教書の白眉といわれ多くの人に感動を与え、生き方に影響を及ぼし読みつがれてきています。特に三章の悪人正機(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや)は有名で、ここに他力本願という言葉がみえてきます。釈迦の教えに深く根ざした教えで親鸞が花咲かせたともいえましょう。  

内村鑑三も歎異抄の影響を強くうけた一人です @「我が信仰の祖先」の中で、日本の大いなる信仰家として法然と親鸞をあげています。  

「彼らが弥陀(みだ)に頼りし心は、以て基督者がキリストに頼るべき心の模 範となすことができる。彼等は絶対的他力を信じた。則ち無限の能力を信じた。彼等は全然自己の義を排して弥陀の無限の慈悲に頼った」と述べ、更にルターが親鸞のことを知ったら「アーメン、実に然り」と言ったであろうとまで言いきっています。  

浄土真宗の開祖である親鸞の他力の信(心)の意味とキリスト教の恩恵(めぐみ)の信(仰)とは根本的には違いますが、類似性があり教示されることが多い。そこで親鸞の言葉をキリスト教の耳で聞くのもよいと思っています。

 今日、私達をとりまく世界は地球が狂スピードで逆回転しているような状態です。こんな言いようのない不安な時代だからこそ私達は目をさまし、勝手気ままではなく自分に由る価値判断を持つべきでしょう。

 思えば揺らぐ信仰の日々の私ですが、自分の力を過信することなく謙虚に神の恵みを信じて、その賜物によって生かされているという信仰を持続したい。更に神の義はキリストの十字架による贖いによって恵みとなって表されていることを銘記したい。ただ単に他に依存するのではなく、万軍の主なる神に向かい、そのはからいに従って前に進みたい。たとえ悪魔の力に押し戻されようとも主の砦、櫓は磐石で本丸は絶対に陥落しません。私は私でしかないが… …教えられ、導かれ、生かされていることを感謝し、残りの人生は神様にお任せです。おわりに八木重吉の詩にも学びたい。

A人がなんと言ってもかまわぬ/どの本にどう書いてあってもかまわぬ /聖書にどう書いてあってもかまわぬ/自分はもっと上をつかもう/信仰以外に信仰を解くまい。 

 

@、内村鑑三著作集17巻79頁(岩波書店)  

A、八木重吉詩集「神を呼ぼう」25頁(新教出版社)

 (たなか まさみつ)

 

 

越谷教会月報みつばさ2003年1月号「主こそ砦の塔」より

 

 

 

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