今月の特集題  信じるということ


主の日に
森谷エイ子
 信じるということを書くのは大変難しいことです。「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4・27)神のお働きであるからではないかと思います。
 教会に働き続けられる神が、牧者を立てられ、応答した多くの人々が礼拝を守り、祈りをもって礼拝者を迎え続けました。新年合同礼拝で、小海寅之助先生が越谷教会の歴史を立体的に、具体的に、お語りくださいました通りだと思います。
 まだ二十代だった私達夫婦を捕らえた“越谷教会入り口”という立て看板は、教会の祈りの結集だったに違いありません。
 年月が経って祈祷会に出席できなくなり大変残念ですが、祈りは合わせられる事を信じます。都合良く自分の現実に合わせる名人です。
 説教をノートに執っています。みつばさの巻頭説教のまとめより私の方が百倍うまい。というのは真っ赤な嘘です。
 説教はいつも、遭遇中の問題はみ手に移り、罪の赦し、癒し慰めを受け、心がしゃんとして歩み始められます。毎週まとめて平面の文字にして私のパソコンに打ち込みます。そうしますと私には汲み取れなかった別の姿が現れます。
 始めの一字から終わりのピリオドまで優しさに満ちて、この只ならないお優しさはナザレの主イエスの御人格なのだと気が付きます。
 過去の傷から解放されています。
 幼い私は長い病気で、聞き分けが良く、泣かない事を不憫がられています。大人は子どもの別の顔を知りません。死が近い事をすでに知っている事や、死へ独りで行く寂しさでバランスを崩している事も知りません。幻覚が絶えず現れます。絶対安静を約束して、独りになると起き出して山積みにされている本を読むので、死は極めて個人的な問題だと知っています。「私は何故私?」「生まれなければ良かったのに」と繰り返し考え続けます。そんな幼児は大人を困惑させるに決まっていると思い秘密にします。
 自分は無価値だと悟った子どもが、答えの無い答えを探して独りで死と向き合っていた秘密を、このお優しい御人格だけが知っておられ、哀れみ続けて来られた事を知ります。
 「私」はこの方を求めて生き、生かされて来た存在だと実感します。
 礼拝に於いて神との交わりを許されたあの犠牲を思い畏れます。祈って、祈りのことばが与えられます。
 信仰は増しません。欠陥だけは目立つのでため息吐息ですが、礼拝出席を許された一員である事を感謝して、再びお会いできる、その「時」に希望をおいていきたいと思います。
(もりや えいこ)

信じるということ
酒井みよ子
 「信じるということ」という題をいただいて、具体的に信じるということを、信仰の面で考えてみました。
 私は神様を信じてどの位になるのかふりかえってみましたら、ちょうど今年のクリスマスで40年になります。つまり、40年間聖書が示している神様を信じて歩んできたことになります。正確には十六歳で洗礼を受けて、神様を信じる信仰の生活が始まりました。でもこの時、聖書に関することを全て、なにもかも理解して、納得して信じたのかというと、そうではありません。むしろ解らないことが多く、理解してない方が多い状態でした。しかし、このような状態の中でも神様の存在は信じました。でも、すべて理解できて、解っていたということではありません。そして、現在も、すべて理解できている訳ではありません。
 ただ信じる、信じないと大別するとすれば、まず神様の存在を信じる方を選んだのです。そしてこれは、もし逆の信じない方を選んでいたならば、まったく違う人生を今歩いているのではないかと思います。
 神様の存在を信じることを自分の内に決断することによって、信じる世界が始まりました。そして今までの生活と大きく違うことは、日曜日は教会へ行って、神様を礼拝することですが、そこで語られる聖書を基にした説教により、信じることの内容が解き明かされ、私の内なるものの思考に多大な影響を与えていると思います。
 この信じる人々が教会を形成し、今日に至り、それは全世界に存在して、信じる者が集う場となっていることを思います。
 信じるということから、このような大きなものが生み出されることは驚くべきことではないかと思います。
 聖書を信じることができない人には、なにももたらされないように思えますが、信じるということによって、信じた人には、その人生を豊かにし、そして信じ合う者が集まって、さらに大きな信じることに向かって、なにかを生み出していくエネルギーともなっている面もあるのではないでしょうか。
 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音書20・29)
 聖書が示す、信じる道を、最後まで歩んでいければと思っています。
(さかい みよこ)

信じる者とされて生きる
田坂邦彦
 現代社会に生きている私達は、国と国、民族と民族、宗教と宗教…教師と生徒、親と子(つまり人と人)が信じられない時代、一つとなりにくい時代に生きている。そこで人は、「自分しか信じられない」という。
 自分自身に「お前は自分を信じることが出来るか?」と聴いてみる。「まあね!」「本当に?」……突き詰めて考えていくと、人間は自分自身を信じることが出来ない存在である事に気づかされる。
 日本人は、生きる基盤を宗教に置く者が多い他国とは違い“自分を信じて生きるように”と教育されてきたように思う。確かに自信をもって生きる方が、そうでないより、有意義な人生を歩めるように思う。しかし、この自信はときには、自分の正当化、自分達だけは…、我が国だけは…と自己中心的な生き方へと、人生を豊かにするどころか、“虚栄”の上に築かれた人生へと向かわせる事もあるのではないだろうか。
 “信じるということ”は簡単ではない。
 自分は、聖書を通し神の言葉にふれ、キリストの愛のうちを歩んでいこうと決心をし、洗礼を受けたと思っていた。しかし、今自分の信仰をふりかえってみると、私が“信じる者となった”のではなく、“信じる者とされた”ということである。
 “信じる者とされた”という時、誰によってされたのか?牧師をはじめ多くの人々の祈りによって、そして何よりも、十字架上で自分の為に死んでくださり、よみがえって、「いつもあなたと共にいる」と言って下さる方によって、私達は、“信じる者とされた”のである。しかも、それは、過去の出来事ではなく、恵みのうちに生かされている時に、現在も未来も希望をもって信じて生きる者とされ続けているのである。
 また、信仰とは“神と私の関係”のように思われがちだが、それだけではなく“神と私達の関係”でもあり、聖書をよく読んでみると、他人とは全く関係のない信仰はありえない。私達は自分がキリストを信じて歩む者とされ、自分が他者のために祈る者と変えられた時に初めて、自分が多くの者に祈られている存在である事に気づき、また何よりも、キリストご自身に祈られている存在(ルカ22・32「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」)である事を教えられ、その愛に応えて生きていく者でありたい。
(たさか くにひこ)

越谷教会月報みつばさ2003年2月号「信じるということ」より


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