伝道する教会

今月の特集題  主イエスと共に生きる


心の恵み
M.K
 去年の四月から今年の三月までの一年間、私は、幼稚園(越谷幼稚園ではありませんが)で父母会の会長という役をやらせて頂いておりました。
 また、去年の夏、我が家の心の支えだった母を亡くし、残された父の介護、子どもの世話、父母会の仕事、と一人で抱えることになり、とてもきつい一年でした。
 特に二学期以降は父母会会長として、運動会、バザー、卒園に向けての準備のためのアルバム委員会、謝恩会委員会とすべて中心となって仕切らなければなりませんでした。役員会、各委員会に主婦が十数人集まるといろいろな人がいます。ほとんどの皆さんはとても協力的でしたが、こちらは、会議のために事前に資料を作り、それを皆に配り、準備して出席しているのに、意見だけが強気の人、話し合い中メールをやり、そのうえ用事があるからとさっさと帰ってしまう人など、こちらの苦労も知らないでと思わず言いたくなるような人もいました。
 私たちの日常生活をおもうと、そこには、相手を悪くいう、相手につらく当たる人、性格や意見の違いから相手と合わない人などがいます。特に親しくしていた友や、肉親の裏切りなどは、心が悶え苦しむような苦痛となり、簡単に癒されません。たとえ建て前では赦しても、なかなか気持ちまでついてこないものです。建て前と自分の赦せない心の深い溝を感じたときどうしたらよいのでしょうか。
 これは、石橋牧師から受洗するための説教の中で教えていただいたことですが、私は神様に、その相手にたくさんの恵みをくださるようにと祈ることにしています。「神様、私の心をかき乱すあの人をどうか、お赦しください。どうぞ神様、たくさんの恵みと平和をあの人にもお与えください」と、無理にでもそういって祈り続けるとだんだんと気持ちが落ち着いてきて、あんなに腹立たしいとおもっていた気持ちが不思議と薄れていくのを感じます。そして、腹を立てていた自分が恥ずかしくなって来ます。こんなとき神様は心のせまい罪深い私にも、祈りによって、大きな心の恵みを与えてくださったとおもうのです。
 私たちが心から救いを求めたときの心から沸く祈りは、かならず神様に届き、そして神様は大きな愛で私たちを必ず救ってくださいます。
 神様は、いつも共にいてくださって、大きな愛の心という恵みを私たちに与えてくださっているのです。
(M.K)

主イエスはともにいる
大矢 真理
 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章20節)
 「主イエスと共に生きる」と言うテーマで原稿をと依頼を頂きました時、最初に心に示された御言葉がマタイによる福音書のこの御言葉でした。
 教会を二十年近く離れていた私が再び出席し始めた頃、思い起こしてみますと、主イエスと共に生きると言う思いを、心で感じる余裕が無かったと思います。サラリーマンとして働き、教会と関われるのは日曜日だけ。その上一力月のうちに二〜三回は日曜日にも出勤があり、毎日が神経を擦り減らし、クタクタになり住まいに戻る。礼拝に出席して御言葉により恵みを頂いても、仕事の忙しさでどこかへ消えてしまう。ミスがあるとミスをした従業員に対し、責任の追求ばかりしてしまう。とてもクリスチャンとは思えない、主イエスと共に生きるなどと考えることも出来ないような生活を送っていました。
 2000年1月16日の日曜日に仕事のトラブルを通して、私は主イエスが共にいて生きて下さっていることを思わされる経験を致しました。あるパートタイマー従業員が約1200個近く商品の数を多く仕分けしてしまった。ミスが発覚した
時、今迄の私であれば激しく従業員を叱責していた。しかし、その時コリントの信徒への手紙一 10章13節の御言葉が脳裏をよぎった。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。」その日の作業が終わってから17時間近くかけて、私一人で納品先へ行き、多く仕分けしたものを戻し、納品されていない所へ納品した。東京都内を300キロ近く車で走ったが、主イエスが共にいて下さり私と共にこの重荷を背負って下さっていると感じながら、晴々とした気持ちで処理作業をしたことを鮮明に記憶しています。
 現在東京聖書学校での学びを赦され、二十四時間いつでもどこでも主イエスが共にいて下さることを感じています。主の御臨在を一番感じる時は祈る時です。『祈り』を信仰生活の第一に歩んで行きたいと思います。
(おおや まこと)

神の守りがあってこそ
荒瀬 牧子
 我が家は夫と私と娘二人の四人家族です。上の子は、グラフィックデザインを学び卒業し、就職するかなと思っていたら、デザイン関係の仕事ではあるけれど、アルバイトでやっている。昨年から毎日ある会社で働くようになった。でも正社員ではない。喜んで働いているから、まあいいかと思っていると、夫が、そんな働き方は良くないと言う。早く自立して欲しいのだが。せめて、自分の払うべきものは払うようにと、払い込み用紙を渡して様子を見ていると、なかなか払いに行かない。こっちがイライラしてしまう。親の心配をよそに、当の娘は、楽しく働いて夜遅く帰って来る。私は待っていて、少し雑談をしてから眠る。
 二女は、ただ今、就職活動まっ最中。リクルートスーツに身を固め、誰が見ても就活だとわかるかっこうで会社説明会、面接へと出掛けて行く。今さら親のアドバイスも聞かないとは思いながら、言うだけは言ってみる。この不景気で、情況は全くよくないとは思うが、当の娘は、のんきそうに見える。夫が上の娘のまねだけはしないでくれよ、と言うと正社員になればいいんでしょう、とうるさそうである。
 子どもに学費がかかるようになってからいつも、何でもいいから働かなくては、と思って来た。
 今度の仕事は勤務時問が短いのがいいと思ったのだが、それなりに難しいところがあって、仕事の時間配分にほんの少し悩んだり、家に居る時間の使い方も駄目だと思ったりしながらも体重が、三キロ減ったので、体重計が、こわれているんじゃないかと思いながら、少しうれしかったり。今わが家はそういった貝合です。
 私は1992年7月19日に洗礼を受けた。その時のテープを、また聞いてみた。「新しい人を着る」という題で、受洗しても、いままでとまったく変わらないので、ガッカリしてしまったりするのですが、「洗礼を受けて決定的に違うのは、新しい命は、わたしのもとにあると神が宣言して下さっている。イエス様ときり離されない関係になると言う事です」と石橋先生が話されている。
 私は相も変わらない、ガッカリされるような人間であるけれども、神の守りがあって、働けるのだと信じている。

(あらせ まきこ)

越谷教会月報みつばさ2003年7月号特集「伝道する教会 主イエスと共に生きる」より


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