伝道する教会
今月の特集題 主にある 平和
主にある平和 |
須賀 工 |
平和というものがどう言うものなのかを考えてみる時、平和という意味とまったく逆の意味を持つものと比べる事で本当の平和と言うものがどう言うものなのか分かる気がする、例えば戦争です。 20世紀は、戦争が沢山あった時代、21世紀は、もうすでに戦争が始まってしまった。文明が発展したおかげで私たちの生活はより良くなりつつあるが、その反面で人間同士の間で絶えず争いが起こっている。その争いが大きくなりやがて戦争となり、一方が核兵器なんて出したらもう終わりです。 時々、戦争する理由が解らなくなる時があります。アメリカ、イラク、アフガンの間にある戦争は、私にとって理解に苦しむものです。初めにテロ事件ではアメリカは被害者でした。でも、今は加害者です。なぜ、人の死と言うものの悲しさを知っている国であるのに戦争を起こす事が出来るのか私には、理解できない。 どうしたら戦争がなくなるのか?私にはその適切な答えが見つからない。しかし、キリスト者として私達が出来る事は、見てみぬふりをせずただ神様に祈る事に限られている気がする。私達がみんな声を出して神様に平和を求める時、私達の上には、「主にある平和」というものを感じる事が出来る気がする。なぜなら、私達は、神様を信じておりそして信頼しているのだからです。イザヤ書の2章4節に「彼らは剣を打ち直して鋤とし…」と書かれています。この箇所は、私達にとっての理想の世界を想像させます。 8月15日に韓国の教会との交流がありました。その日は韓国にとって独立記念日でした。韓国では誰もがこの出来事を祝います。私はこの事で少し不安になりました。「もしかしたら歓迎されないのかも」と。しかし、彼らは私達を心から歓迎してくれました。彼らと私達は同じ神様を信じています。だから、私達は罪を認め合う事ができました。私達は、「憎しみ合いという名の剣を打ち直して一つの信仰という名の鋤」を作りました。 私達が出来る事はほんの少しの事しかないのですが、それは祈る事と信じる事だと思います。神様の愛が、私達の上にそしてすべての国の人達の上にありますように。 |
(すか たくみ) |
新しい天と地を 待ち望みつつ行動する 自分でいたい |
橋爪 協子 |
世界中の人々のNO WARの叫びが、地球を駆け巡ったにもかかわらず、耳貸さぬ為政者と国によって尊い命が失われた。 私たちは今問われているのでは? 神による新しい創造の御業を待ち望むか、望まないか。希望を持つか、持たないでただ嘆くのみか、を。 絵本「あらしのばんに」で、あらしを避けるため、小屋に避難してきたヤギとおおかみが、暗闇ゆえにお互いの姿を確認しないまま穏やかに語り合い、あらしが過ぎるのを待つ。まだ明けやらぬ朝、あらしが過ぎ去り、「いつかまた会おう」と別れるが、腹ペコのおおかみは、その時、おいしいヤギの肉にありつくことを考えている。 しかし、あらしの中で共に願ったのは、晴れて、無事に助かること。 「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし」(イザヤ書65章25節) 父は、満州(この表現は使いたくないが)で教師をしていた。そこで五人の子どもを授かりながら、私が、会うことのできなかったふたりの姉を戦中亡くしている。私は、今日まで生かされた。 しかし、私の家族よりもっともっと大きな悲しみの中に生きた数多くの人々のことをいつも考える。 戦没画学生の祈りの絵を集めた「無言館」(長野)で見た千葉四郎さんの作品。小さな小さな「母の坐像」 母は、亡くなるまで五十余年、息子の戦死を信じていなかった。 日高安典さんが出兵の朝まで描き続けた恋人の「裸婦像」。あと五分、あと十分、この絵を描き続けたい。生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから……。でも日高さんは帰ってこなかった。 何回かボランティアで中国山村に行っているが、仲良く交流しながらも、私たち日本人にそっぽを向くひとりかふたりの子どもがいる。 ヤギもおおかみもへびも共存する世界、人の世もまた。 私は、小さな存在ではあるが、平和を守るため、声を上げ、集会にも馳せ参じ、署名活動にも参加し、嘆くだけでない、できる限りの行動をして歩きたいと思う。 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(ヨハネ黙示録7章10節) |
(はしづめ きょうこ) |
平和をつくり出すもの |
田坂 邦彦 |
9月11日を私達はどう受けとめたらよいのだろうか。 あの許されない、ニューヨーク貿易センタービルへの航空機突入を含む、同時多発テロから二年が経った。何の罪もない2792人の人々の生命を一瞬にして奪う行為、その解決を何に求めるのか。 テロの撲滅・平和と自由を得るためという大義名分をもって、この2年間に、アフガニスタン、イラクにおける戦争が行われ、また、そこにおいても多くの罪もない市民の生命が奪われ、特に老人や子どもがその平和な生活を、生きていく基盤を奪われた事も事実である。 本当の平和・自由を得るために、私達、キリスト者は何をすれば良いのか。何よりもまず、平和のために真剣に祈ることである。しかし、何をどう祈るか。一人一人の信仰が問われている。 テレビを見ていて気になることは、大統領やチャプレンの口から出る「我が国を守ってください。我が国の平和と自由のために戦う彼らを守ってください」と言う言葉。50年前の我が国の民が、神社、仏閣において祈った祈りに似ている。 キリスト者の平和への祈りは、一部の国の自由と平和、あるいは一方の国の勝利のために祈られてはならない。 この夏、私達は8月15日から5日間、韓国の啓明星教会を訪問した。共に守った礼拝は「主にある平和」が主題であり、今回の訪韓を通じて、過去の歴史に目を向け、学び、新しい将来へ向けて平和をつくり出す 努力の大切さを考える旅であった。 一緒に行った小・中・高生・青年達が韓国の若者達との主にある交流を通して、未来の平和をつくり出す担い手に育っていってくれる事に希望をもった旅でもあった。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節) イエスキリストが十字架で死なれたのは一人も滅びないで(誰一人、例外はなく)全世界の人々のために死なれたことを聖書は伝えている。 キリスト教の神は、キリスト教徒だけを守り、他の宗教の者を滅ぼそうとする心の狭い神様ではない。世界の全ての人々の救いのために十字架にかかられた方を通して、本当の平和が来るのだと思う。 |
(たさか くにひこ) |
越谷教会月報みつばさ2003年10月号特集「伝道する教会 主にある平和」より |