伝道する教会
今月の特集題 主によって生まれる
どこから来て どこへ行くのか |
長井 清美 |
11月24日、午前8時7分、南極で皆既日食があった。太陽、月、地球が一直線上に並んだ1分半の間、白夜の南極に夜が訪れた。輝くコロナ、ダイヤモンドリング。この感動的なシーンに、言葉はいらない。ただ静寂の中で見つめていたいと思った。地球は太陽系の一つの惑星。太陽系は銀河系のはしの方にあるらしい。人類にとって宇宙はまだまだ未開だ。銀河の果てが、どのようになっているのか知るよしもない。 万物を創造された神様の尺度は、とてつもなく大きなものならば、私の一生は神様の一瞬のまばたき程だろうか。イヤもっと短いかもしれない。たとえ一瞬であっても、人は自分の人生を懸命に生きている。 日本のクリスチャン人口は1%に満たない。そのわずか1%に入れたということは、皆既日食どころの騒ぎではない。千載一遇イヤ億載一遇の恵みを頂いたのである。宇宙の果てまで見える神様の目から見れば、私など蟻よりも小さい微生物のようなものだ。でも見つけられ、新しく生まれた者とされた。新しく生まれるってどういうこと? ニコデモさんと同じ疑問を持つのは当然のこと。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」ニコデモは「もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスは「誰でも水と霊とによって新しく生まれなければ神の国に入ることはできない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いて、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そうである。」 人が宇宙の果てを見ることができないように、自分がどこから来てどこへ行くのか知ることはできない。イエス様の十字架の贖いによって、新しく生まれ神の子とされた。その私を神様は「私の目にあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」と言って下さる。この御言葉によって神の子としての自覚が育ってくると思う。今日も昨日と変わらない一日のように思えても、見つけて下さった方が、責任をもって日々育てて下さる。行き先が分からずとも、羊飼いの声に従ってついていく羊のように、従う者でありたい。きっと、振り返ってみると、何一つ無駄なことはなかったと思えるだろう。 それは「私は世の終わりまであなたと共にいる」と言って下さる方が、いつも私のそばにいて下さるのだから。 |
(ながい きよみ) |
神様に感謝 |
高桑 真代 |
今の季節、夜空を見上げると美しい星が輝いている。私は星座のことはさっぱり解からないが、星空をながめているのは好きだ。星空を見ていると、すべてを計画され創られた神様の愛を感じるからだ。こんなにも神様が私達を愛して下さっていることを感じられるようになったのも越谷幼稚園に出合わせてもらったからであろう。今年もまた神様の愛をたくさん感じ、心暖まるうれしいクリスマスを越谷幼稚園で迎えることができ感謝だ。 子どもの頃、もちろんクリスマスはワクワクし待ち遠しかった。教会でページェントをおささげしたり、賛美したりと楽しかったことを思い出す。しかし少しずつ世間のクリスマスの波に流され、何がうれしいのか、クリスマスの本当の意味さえ理解できないでいた。 しかしそんななかで私は越谷幼稚園と子ども達に出会い、クリスマスがこんなにも心暖まる出来事だったことに気付かされた。神様が私達のためにイエス様をおくって下さったことがこんなにもうれしいとは…。 私は子ども達と一緒に過ごさせてこらうなかでようやく主イエスに出会えたように思う。 ♪神様に感謝しましょう ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ 神様はよいものを下さった ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ 毎日の生活を振り返ると私の周りには『感謝』であるれている。温かい日の光、大地を潤す雨、そして自分の心の支えとなっている家族をふくめ今まで出会ってきた沢山の人々の存在。すべては神様の愛や恵みによるものである。主イエスに出会い、神様の愛を感じ私は感謝の気持ちを持ちたいと思えるようになった。しかし「くやしい」「どうして私が」「ずるい、うらやましい」と感謝とはほど遠い思いが沢山心の中にある。自分の心が黒く澱んでくるたび私は子ども達の神様への感謝するキレイな心に出会わされ救われている。子どもの素直な思いがズキンと心に響き思い直すチャンスをもらえているのだ。今私が子ども達と共に過ごせていること、越谷幼稚園に出会えたことを最初に神様に感謝したい。 原稿の依頼があった時あまりにもの難しいテーマに感謝どころか、本当に私なのか、どうして!?の思いでいっぱいになった。しかしアドベントを迎え子ども達と神様のひとり子のイエス様と出会いうれしい気持ち、感謝の思いに満たされてきた。原稿を感謝!? 少しずつ全てを受け入れて感謝していく心を持っていきたい。 |
(たかくわ まさよ) |
主イエスによって生まれる |
須賀 実 |
今回の特集のテーマを与えられてあまりの重さに驚き、恐れを感じ考えるほど「何を記すれば良いのだろう」「何を表現すれば良いのだろう」と悩んでしまいました。「生まれる」それは生命の始まりであり、一人の生命が与えられる事によって人は一人で生きては行けない、多くの人達との関わり合いによって生きて行く、別の言い方では互いに影響し合って行く、この様に考えて行くと自分の存在はどの様な立場にいるのだろうと思い、どの様な価値があるのだろうと悩み、自分は影響し合っている存在なのかと苦しい思いだけが心に写し出されて来ます。しかし、何かを書かなければ約束を果たす事は出来ないと決心し、何か良い御言葉はないだろうかと聖書を開いて見た所、偶然にも最初に開いた所がマタイによる福音書9章18節からでした。 それは12年間も患っていた女がイエス様に近寄って治りたいとの一心、救われたいとの願いからの行動(信仰)によって「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とある聖句でした。この女の人生は、長い間の患いの苦しみであり、人との関わりは偏見の目の中にあり、人間としての生活のどん底の中にあったろうと思います。そんな女の救われたい必死な願いにイエス様は振り向いて下さった。女の願いを適えて下さったのです。彼女にとって初めての人との関わりはイエス様だったのです。そして新しい生命が与えられ(生まれ)たのでした。それは苦しみ悩みある者に対しイエス様が自ら振り向いて下さった。それは人間の思いではなく神様の意志を表して下さったのです。感謝です。 今の私の楽しみは礼拝を守る事と家族三人(時々息子の親友が加わって四人)での夕食の一時です。食前の祈りは息子の役目で「世界の中にはご飯が食べられない国があります。その国をお守り下さい」。 幼稚園の時からの同じお祈りです。テレビや映画の話、事件や社会、平和の問題について話し合っています。時にはその日の礼拝説教についての話も盛り上がったりもします。家族、親子、友人との関わりの中にあって教えられる事が多いのです。それは自らの信仰(長いと自負していますが)から作れるものではなく、まして自分と神様の関係から生まれるものでもなく、多くの人々との交わり、支えによって生かされているという事、そしてそこには神様の働きがある事を知らされています。今、あらためて主の降誕の感謝です。 |
(すか みのる) |
越谷教会月報みつばさ2003年12月号特集「伝道する教会 主によって生まれる」より |