伝道する教会
今月の特集題 主イエスによって常に新たに
須賀 弘子 |
このテーマは書けない。何度もボールペンを投げる――― 書けば書く程頭痛がおこる。どこかで拒否反応を起しているのかもしれない。 「主にあって新しくされる」といっても、文句ばかりをいっている自分が、家庭でも教会でも、オリーブのおうちでも常にあるから。 別に開き直っている訳ではではないが、嘘は書けない。 この紙面を汚すことになるので、お断りの電話を何度かしたのだが全てお留守。誰が言わせたのか“まけるな“という言葉が口からでた。 「私の体は日に日におとろえていくが心は日に日に新しくされる」という言葉がどこかにあったはず。ずっとこの言葉にあこがれていた。 高血圧症、高脂血症、心臓肥大との診断。首から背中が板のように硬く痛い、のどがつまっている感じ、めまい、頭痛。病と闘っていらっしゃる方には顔向けできない。病気とは言いがたいものだが、それでも、それが日替わりメニューのように出てくると少し辛いものがある。と同時に私は心もなえる、弱くなる、もっと言うとそのことで自分の殻に閉じこもってしまう。 他人をねたむ、うらむ、明らかに心の中に神様がいらっしゃらない。あこがれはあこがれのままである。 二度目の“まけるな”の言葉が口から出た、今度は私の声。 「一日に一回神様を思い浮かべたらラッキーとしよう、そして、その一日が一ヵ月続けば大したものだ、それをチェーンでつなげる。つなげてくださるのは神様」 よし、これでいい・・・・。 2004年も試練の年。古いものを引きずりながらの歩みだが、今の私にはこれしかかけない。すみません。 |
(すか ひろこ) |
江原 史雄 |
新年を迎え、心を一新して、主にある確かな歩みをしたいと願う者である。 毎年のように、毎日のように自分に言い聞かせ、神に祈って始まるのである。しかし現実はどうであろうか、その決心もつかの間、この世の出来事と、心の弱さゆえに、神様との交わりは乏しく、安易な肉の喜びの方へと引っ張られていってしまう自分を痛感するばかりである。 神様は、なぜにこんなにも、御自身のみこころと違う思いを持つ者として、人間を造られたのであろうか。聖書はそれを人間が犯した罪の結果であると、語っている。 初めの人アダムは、神様のみこころどおりにいきる人として造られたのに、それにあきたらず、自分が神の如くなりたいと思う結果、神にそむく決断をしてしまった。その結果の実が、今の私の心の姿であるということである。ゆうに、私がどんなに心を新たにしようとしても、罪に売り渡された者の結ぶ実は、肉の実きり結べないと、ガラテヤ5章19節は言います。 ゆえに、くる年毎に心の一新をどんなに願ったとしても、私の決心はほころびてしまうのである。聖書が、肉の思いはこうですよと、その結ぶ実を断言しているからである。 しかし、こういう私に一つのすばらしい可能性が与えられたと聖書は告げます。ロマ書八章二節のごとくである。それは、主イエスを信じる者に与えられるみたまによって生きるという生活である。これは、自分の強い決心や賢さによってではなく、弱くみじめなものに与えられる無代価の神の恵みである。 『神の愚かさは人よりも賢い』とあるとおり、人の目に愚かと見える方法で、神は、このみたまによって生きる生活を可能にして下さった。 マルコ16章17節に、この明けて新しい年のように、「新しい言葉を語る」と主を信じる者への約束が語られている。みたまによって歩む者、みたまによって新しい言葉を語る者とされた者は、依然として弱き肉を持ちながらも、もはやその肉に頼らないで、みたまに信頼して歩むのである。そこでは自分の古き肉の頑張りをむちうつ必要はないのである。今迄と同じ弱さをそのまま持ちながら、しかしその自分に頼らずみたまに信頼するのである。その時に、みたま御自身がすべてを持ち運び良き実を結ぶように導いて下さるというのである。 このありがたさの中に入れていただき、いつも主にあって喜びを新たにする者でありたい。 |
(えはら のぶお) |
住田 尚子 |
我が家の犬『タブ』、去年11月1日で17歳になり、人間の年に直すと百歳に成るそうです。最近老化が進み家族も胸を痛めております。 毎日、朝の散歩で始まり散歩で終わります。ただ便秘がちで、なかなか散歩の時に便が出ません。仕方なくおむつをしているのですが、家の中で漏らすこと数回、後始末が大変です。今日は散歩で便が出るようにと気をもむ毎日です。他に、お風呂は体力が消耗してしまうようなので毎朝熱いお湯で、顔と耳を拭きます。 また日中は日の当たる所を移動しながらぐっすり眠っておりますが、夜中になると数回徘徊がはじまります。時々頭が痛いのか、耳鳴りがするのか解りませんが、前足で頭を抱えるようにして悲鳴を発します。夜悲鳴が始まると目が覚めてしまい寝不足気味です。当然耳も聞こえませんし、目も余り見えないようです。 犬の一生を見ていると自分の老後を見ているような気もします。完全に『要介護犬』です。自分も年をとって解らなくなると、このように介護をして貰わないといけないのだなーと思っております。 1月4日の説教、詩編90編10節「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。」まさにその通りと納得しました。私の老後は神様に全てをお任せしております。 夫も一緒に礼拝に出席させて貰うようになってから、特に有難くて感謝しております。人工透析を週三回受けておりますが、今のところ日常生活に支障はありません。本人は大変でしょう。薬を飲む量も半端じゃないくらい多いです。神様に支えられて今まで来られたと思います。 これからもいろんな事が起きるのは間違いないです。毎日、毎日を大切にくよくよしないで人生楽しみたいと思っております。 |
(すみた なおこ) |
越谷教会月報みつばさ2004年1月号特集「伝道する教会 主イエスによって常に新たに」より |