伝道する教会

今月の特集題  永遠の生命の世界に生きる



永遠の生命の世界に生きる
川端由喜男
 「十字架と復活の主」に於いて神が啓示されたとキリスト教では言うのであるが、どのような神が啓示されたのであるか。
 このことは、旧約聖書の神は未だかくされているということでもある。
 私共は創世記の初めに、天地創造の神、生命を与える神について記されていることを知っている。
 然し、私共は旧約から、このこと(天地創造、生命を与える神)を信じるのではない。
 はっきりと神が示されたのは、十字架と復活の主(主イエスの生涯)、聖霊降臨に於いてである。十字架の死後三日目に復活された主イエスに於いて、天地創造の神、生命の源である神が示されたのである。勿論、十字架の主に於いて、滅ぶべき私共が救いを与えられ、神の国(天国)の住民となり、永遠の生命を与えられた。
 神の国(天国)は、あなた方の間にある。(ルカ17・20)「国」という訳語は、「支配」と訳した方が原意に近いと言われる。天国というと将来、行く場所のように考えられるが、そのような場所的な意味であるより、主がいつも一緒に居て下さることで、これは信仰を持つ時、将来もそうであるが、現在も、すでに与えられていることである。現在の信仰をもって生活するところは神の国に住まうところである。
 「永遠の生命」ということも、何か将来限りない生命と考えられがちであるが、「永遠」という文字が聖書で用いられる場合には「無限」という意味もあるが、元来は「常に」という意味を持っている。「永遠」は時間だけでなく、「今」という一瞬、一瞬を、即ち、常に現在の生活の中に、どのように生きるかということになる。
 現在も「神の支配」(国)の中に生活し、一瞬一瞬の間も、イエスを主と告白していく。そこに主イエスが一緒に居て下さるということが、永遠の生命に生きることである。
 同時に、私共は一瞬一瞬に、主を告白して生きているのかどうかと言うことである。実際の生活では、このことは大変きびしい問題であるが、この問題に直面して、いつも信仰を明確にしていない自分に気づくことが大切なことである。その時に、十字架の主が、私共の方を見ておられることを深く想い起こしたい。
 信仰に生きる、永遠の生命で、この世界に生きるということは、「十字架と復活の主」のあわれみの中で自分に与えられているものを十分に用いて、主に仕え、人に仕えて生きる、生かされていることである。
(かわばた ゆきお)

復活の主の命にともに結ばれて
小幡 正
 この文が活字となるのは復活祭の後になるだろう。復活祭の夕拝の奏楽当番で何を弾こうか、レパートリーが少なくて悩んでいたが、今日、前奏・聖餐式・献金・後奏の曲をだいたい選ぶことができた。
 十何年ものブランクを経て、再び夕拝の奏楽をさせていただくようになったのは、去年の八月。それ以来、奏楽の準備をするごとに、前にも増して喜びと感謝にたえない思いが強くなってきている。
 こんな未熟な奏楽で、ちゃんと役に立っているのだろうか。神様への奉仕になっているのだろうか。自分の音楽の楽しみの満足や、何か自分が良いことをやったみたいな満足を得ようとする、そういう方向にばかり傾いているのではないだろうか…いつもさまざまな不安が浮かんで来ては消え、また浮かんで来る。
 しかし、そんな気持ちにもかかわらず、選曲や練習のたびに、本来全く資格のないはずのこんな自分をも敢えて用いて下さり、弱い自分を力強く支えて下さる主への感謝の気持ちや、歌詞や曲を通して主の大きな愛を感じる喜びが、必ずそれらの不安をいつの間にか包み隠してくれるのだ。
 正直、永遠のいのちのことなど自分には書けないと思った。説教をお聴きしてワカったと思っても、またそのうち、さっぱりワカらなくなってしまったりする。しかし、病床で洗礼を受けられ、ついに礼拝堂でともに礼拝にあずかることなく天に召された兄弟のことをお聞きした後で、第一ヨハネ5・12に書かれているように、結局一回もお会いできずお話しもできなかったその兄弟も、自分も、ともに主イエスに結ばれていて、まさにそこに永遠の命があって、その一点においてともに結ばれているのだ、と強く思わされた。
 内輪の話で不適切かとも思ったが、仙台に住む父が、手術で取り除くことのできないがんと闘っている。帰省した時に見た父の表情はほんとうに自然で、驚くほど落ち着いている。父の姿を通して永遠の命という恵みの強さが示されているのではないか。そんなひとことで片づけられることではないだろうし、また、誤解や批判を招くかもしれないが、そう証しせずにはいられない。
 説明の不十分な文で恐縮だが、先に天に召された方や、離れて住む父や、礼拝を欠席されている皆さんとともに心を合わせて、姿は目に見えなくても一緒に祈り賛美するつもりでささげる、そんな奏楽ができればと願っている。
(おばた ただし)

人生は主イエスの中に
― いつも隣人がいる 達成を信じる ―
T.M
 人生への取り組み方をしらずに私は生きてきました。孤独に打ち負けないように「孤独は友達、私の勲章」だと自分にいいきかせ、「すべてに不満足、不健全」に生きてきました。
 「なんでですか」。何を悪いことをしたでもない母をたたくあの絶望の音、母の悲鳴とこどもの泣き声、私がもの心つくころには父の暴力、怒鳴り声、罵りがすでにありましたし、母と私を含めたこども3人はただ父の気の済むまで続く家庭内暴力に身を緊張させ、息を殺して待つほかありませんでした。
 陰鬱な父の帰宅から始まる絶望の夜がくる家庭に一家団欒はなく、こころから気のやすまる日などありませんでした。私たちこどもが言葉で学ぶときよりも早く、めばえのときから、悲しき絶対である父に打ちのめされ、一つ下の弟と毎日話す話題が「大きくなったら必ず実行する」「昼間だけだといいね。第一、笑えるもんね」「お母さんはぼくたちが小さいから出て行けない」。いま思い出すのがつらくなるようなものが多かったと記憶しています。
 中学二年生ころから仏教書、占星術書を読み始めて「人生は無常ではかなく、思い通りにいかない。人は奮闘努力はしても道が開かれるか否かはわからない。第一、マイナスの家庭環境から生まれているし、自分で自分の人生を選べない」「母は見ている。だからおかしなことはできない。がんばらなくっちゃ」が成人しても自分のなかに自然に出てくる言葉でありました。
 主イエスとの出会いは、小学校低学年の時に日曜学校に何度か行ったこと、母の闘病時代であった高校の時に牧師(友人の父)から貴重なことばをいただいたことから始まるのでしょうか。しかし、続けて教会へ行ったことはありません。
 昨年五月に求道者になり十月に受洗できたいま、とてもよくなりました。主イエスとつながったからです。長年にわたる父への思い煩いや自分への不信はぬぐい去られ、あれだけ自分を覆っていた孤独感と無力感もなくなりました。努力する自分はかわらないのだけれど、自分の根底がパラダイムがかわったのでしょう。主イエスに導かれて、実は自分が長い間、孤独感と無力感を理由をつけて選択していたのだとも気づかされました。
 「期待が自分にあるから耐えられる、目標達成を信じられる、そのために代償の先払いをする。わたしはやる、できると信じる。しあわせは、諦めないは人との交わりにて育まれる」。
 神様の選びを信じます。主イエスに感謝します。
(T.M)

越谷教会月報みつばさ2004年4月号特集「伝道する教会 永遠の生命の世界に生きる」より


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