今月の特集題  主にある自由




切に祈りつつ…
岡田 浩幸
 介護の仕事を通して初めて入居されている方の死に立ち合ったのは、まだ就職して半年くらいの時期だったと思う。夜勤の仕事を覚え始めた頃、先輩の寮母と居室見回りにいくと全身に汗をかいて苦しそうに声をあげているSさんがいた。先輩が看護師に緊急連絡をしている間、同期の寮母と衣類交換をしていると苦しがっていたSさんは突然呼吸を止めた。同期の寮母がSさ〜ん!と声を掛けると消え入るようなうめき声を出しては静かになる。声を掛けると消え入るようなうめき声を出しては静かになる・・・と言う状態が何回か続いた後、まったく反応がなくなった。私は声を掛けることもできず立ちつくしていた。 
 普段の仕事の中でSさんは担当外だったのでほとんど関わる機会がなかった。
 職員間で伝え聞く人柄に直接触れることもなかった。申し送りで聞くSさんの健康状態は情報として把握していたとしても、そんな私がSさんの死に立ち合うことになった。
 駆けつけた看護師は、「施設の中で生活されていても職員に気づかれない間に亡くなる人もいる。Sさんにとってこの夜中に夜勤の職員全員に看取られたことは良かったのではないか」と話した。
 本当に良かったのだろうかー。
 この経験を私はよく振り返る。15年程前の話だが、介護に携わる職員としての原点とも言える経験である。介護職員としての確たる持論を持てないのは、この経験が未だに消化しきれていないからだ。あの時、ターミナル期を支えるケアを提供する体制はどうだったのか。技術・能力にバラツキのある介護職員と情報を共有するしくみは?等々振り返って疑問に思うことがあるのもひとえに当時の自分自身の未熟さ、力不足ゆえである。 
 さて、私は2年勤めた特別養護老人ホームからデイサービスセンターに異動して13年が経ち、今では仕事の内容は事務が中心である。忙しく流れた月日の中で身に付けたものがあると思いつつも、毎日センターに来園されるご利用者の状態を把握しきれていない私はあの頃から一体どれだけ成長できたのだろうか。
 ただ、職場に向かう電車の中、あるいは自転車をこぎながらご利用者が安全に健康を支えられて事故もなく一日を過ごすことが出来るようにとの祈りだけは日々強くしていきたい。これが何も持たない者に主が与えてくださっている自由だと思う。 
(おかだ ひろゆき)

魅力ある人間関係
篠崎 誠吉
 あらゆる諸問題、人間形成において私達人間には、あらゆる諸問題を解決し、又魅力ある人間へと成長する可能性を持っている。
 それは、統べてその人の心掛け及び努力にかかっている(我力の努力のみではなく)。
 人は此の世に生を受けて、一人一人がその人だけの環境、条件、立場等の中で育まれ人生を体験していく。
 又自我に埋没しない生き方をすることによって、前向きに生きる姿勢が生まれる。前向きとは積極的な生き方であり、喜びを持った生活を求めていく。そのような生活姿勢は他者とも心の通い合う生き方を望むようになるので、生きるという現実の同伴者としての他者を思い遣る心が生じ、他者の喜びを喜びとし、他者の痛みを共有すること、「共」であることを願う。
 しかし、人間は限りある者、限界を持っているものなので、主イエスキリストのみそばに座り、み言葉に耳を傾け、み心を行うことが先ず第一に必要であり求められている。
 その限界にイエスキリストは立っている。限界でキリストに出会うことが出来る。そして、自分の内部で解決出来ない重荷や問題もキリストと共に超える事が出来る。
 それ故に我々人間は限界を喜ぶことが出来る。
 外に立っているだけで、主イエスキリストを眺めているのみでは 何の力にもならず、すべてを働かして益としては頂けない。
 主イエスのみそばに座ってみ言葉に耳を心を傾け、神のみ心を行い、行おうとするならば、それはすべての解決への道であり、生き方なのである。
 だから私達は、思い煩って限界の我力で解決しようとしないでよい事であり、主は限界有る者を用いて下さる。
 主イエスキリストの支配に生きる時、本当の魅力有る人間関係を生み出していけることを確信する。
(しのざき せいきち)

越谷教会月報みつばさ2004年7月号特集「主にある自由」より


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