今月の特集題  主が誕生された



クリスマス 僕の昔と今
倉田 優亮
 僕はこのような機会を与えてもらい、幼い頃の自分を顧みてみました。
 越谷幼稚園に通っていた頃、僕はクリスマスが、主イエスの誕生した日であるということは知っていました。しかし、それは環境が与えてくれたものなので、同じくらいの年の子も含めて周囲の人は皆知っていたことですが、果たして今現在の子どもにも当てはまることですが、クリスマスは主イエスの誕生した日であると認知している子どもはどのくらいいるのでしょうか。おそらくそんなには少なくはないと思いますが、ただ子どもの心理から言って、知っている子でも、知らない子でも、やはり子どもにとって一番はクリスマスプレゼントやクリスマスパーティーなど、自分が楽しいことが一番にくると思われます。かく言う僕自身もそうでした。
 しかし、大人に近づくにつれ、そういったこともなくなり、少し自分以外のことも考えるようになりました。僕は高校を卒業するまでずっとキリスト教の環境の中で育ったので、学校の友達なんかは当然キリスト教を理解していましたが大学に入り、まったく違う環境での友人にキリスト教の環境で育ったことを話すと、意外にも皆、好意的で理解がありました。僕は思い切ってクリスマスに教会へ来てみてはと誘ってみたこともありましたが、まだまだそこまでには至らなかったようです。
 そんな時、自分のクリスマスに対する捉え方が幼い頃と変化しているのに気付きました。幼い頃の自分は幼稚園または学校でクリスマス祝会をやり、24日にはクリスマス礼拝に行き、クリスマスプレゼントをもらい喜びながら来年を楽しみに待つというのが普通になっていましたが、去年、そして今年と越谷教会のクリスマス礼拝のお手伝いをさせてもらっています。ただ何となくすごしていたクリスマスがこのように変化したのは、頑張って活動している青年会のおかげだと思っています。そして、その活動を盛り上げてくれた亡き鎌田牧師、今の活動を支えてくれている須賀工青年会長には、感謝しています。
 主イエスは人々のために生まれ、人々のために生き人々のために死んでくださいました。そんな主イエスのために、この日は自分以外のことを祝福し、祈ってもよいのではないでしょうか。人間は自分勝手な生き物です。だから誰かのために何かをするのはとても難しいことですけど僕は主のように、だれかのために何かできるような人間になりたいと主の誕生からそう思いました。  
(くらた ゆうすけ)

主のひそかな誕生
横田 和弘
 先ず、客員会員の私にこのような機会を与えて下さった越谷教会の皆様に感謝致します。クリスマスも近付き、主の前に心も洗われ、聖書を読む力にも弾みが付く時節となりました。
 主の誕生については、マタイ伝とルカ伝に詳しく記述されていますが占星術学者たちについてはマタイ伝に、羊飼いたちについてはルカ伝に記述されていて、互いに重複しておりません。また、ルカ伝においてはイエス様に関する記述以外に、洗礼者ヨハネの出生についても詳しく記述する念の入れようです。いずれにせよ、イエス様の公生涯(復活とその後も含めて)以外に関する記録は、この誕生に関すること、悪魔の誘惑にあったこと、ヨハネより洗礼を受けたことぐらいで(ルカ伝には幼少の頃の記述が若干はありますが)、その中でこの“クリスマス”が最も大きい出来事です。が、このクリスマスの出来事も、その時代の中で、ある家庭とそれを取り巻く民衆の中で、日常の中のほんの一コマの出来事として起きた事で、特に直接関与していなかった人々にとっては取るに足らない出来事として起こったもの、でもそこに意味がある、と最近思うようになりました。(そうあってほしいという個人的願いもあるのですが)
 ヨハネ伝3章に、イエス様のニコデモに対する聖書の解説の記述がありますが、8節に“ 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いてもそれがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである”とあります。この節の意味が今まで理解できませんでした。が、確かに私たちは、風の音は聞けても、風がいつ、どのように起こったのかは分かりません。つまり、風はひそかに起きて、ひそかに消えて行きます。“霊から生まれた者も皆そのとおりである”と結ばれていますから、霊から生まれる時とは風のようにひそかに生まれるものなのだろう、と思ったわけです。だから、イエス様の誕生の物語“クリスマス”も真実はひそかな出来事だったのだろう、と思うようになりました。
 風はひそかに起きて、人知れず消えていきますが、起きている間は非常に自由に吹いています。恐らく神様の導きのままに、神様を賛美しながら吹いているのでしょう。自分の日常生活もそのように、神様に導かれながら、風の如くひそやかに、しかも真の自由の中で伸びやかに送りたいものだと、このクリスマス、心静かに思いました
(よこた かずひろ)

私を呼び、救い出す主
根本 薫
 今年も街中がクリスマスの雰囲気に溢れる季節になりました。ついこの間年が明けたような気さえするのに、一年が過ぎる速さに驚きます。
 私が越谷教会で洗礼を授けられたのがもう12年も前のことになるということを思い出すと、驚きはさらに大きくなります。
 私自身の一年を振り返ると、日常の私事に心を捕らわれる日々でした。神様はどう感じていらっしゃるのでしょう。神様への畏れを忘れて自分の力を頼みにしようとする私、「世の楽しみ」に心奪われそうになる私・・・。さまざまな誘惑に惑わされてしまう自分が申し訳なく、神様に赦してくださいと祈ることも恥ずかしいと思うことがありました。こんな私にもこの一年のうちに何度か神様が臨んで下さり聖書の教えに還るように導かれると、その都度、神様は本当に迷い出た一匹の羊さえも探し出してくださる方なのだと実感せずにはいられません。私が心乱れながら思わず助けを求めて聖書を開くと、そこにはまさにそのとき必要としていた進むべき方向への力強い導きがありました。私は、自分を捕らえて、一人の人間の日常の些細な悩みにも愛をもって道を示してくださる神様に驚きと畏れを感じました。
 四年ほど前から、毎年クリスマスには、友人らと結成した合唱団の活動の一環として街頭でキャロリングをしています。今年もそれに向けて練習を重ねているのですが、クリスマスの讃美歌を歌詞の意味を噛み締めながら歌っていると、イエス様の降誕がいかに喜びと幸せに満ちたものであるかを感じることができます。その喜びは、国や時代を問わずにイエス様によって救われ、赦される人々共通のものでしょう。
 私達の世界は苦しみや悩み、弱さゆえの罪や涙にまみれています。世界のいくつかの国では戦いによって命があっけなく奪われ、誰かの私利私欲のために身体や生命が脅かされるという悲しいニュースが毎日のように報道されています。きっとこれはイエス様がこの世に遣わされる前から続くことであり、これからも人間の性(さが)として変わらないことなのでしょう。それでも、神様は私たちを罪から救い出すためにイエス様をこの世に遣わして下さり、今も私たちのために多くの業をなしてくださることを思い出すと、この私自身も、イエス様ゆえに赦される存在なのだと改めて思い知ります。
 クリスマスを迎える待降節の今、この私をも救い清めるためにイエス様が遣わされたこと、神様の愛の強さを改めて心に深く留めたいと思います。    
(ねもと かおる)

越谷教会月報みつばさ2004年12月号特集「主が誕生された」より


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