今月の特集題  夢が広がる



ボーマンさんの演奏会
豊田 直子
 12月に清水長老の所属しておられるVIPのクリスマスコンサートでピアノを演奏させて頂きました。
 今回のゲストはチェロ奏者のベアンテ・ボーマンさんでした。ボーマンさんはお話をされる前に何曲か皆様に親しみのあるクラッシックの曲をピアニストでおられる夫人の名伴奏と共に弾かれました。私もそのふんわりと包み込まれる様な音色にうっとりとしました。それからとても穏やかな声で神様を信じる幸いについてお話されました。それは余り難しい言葉を使われず、クリスチャンでない方でもよく理解できるようなユーモア溢れる内容でした。ボーマンさんはご自身の演奏の賜物と、ユーモアのセンスを用いて福音を述べ伝えておられるのだなあと思いました。
 私は自分のことが恥ずかしくてなかなか知り合いをそのコンサートへ誘えなかったのです。けれども直前に職場でチラシを配ったら3人の同僚が来てくれてびっくりしました。月曜日に出勤したらみんな楽しかったと言っていました。そして今までより打ち解けて色々話が出来るようになり感謝でした。これからは怖れず私が神様に愛されて今生きている幸いを知り合いの方に伝えていきたいと思いました。
 コンサートの間、5歳の隆志は寝ていました。今晩は随分静かにしているなと思っていた所、案の定です。
 彼は毎朝6時に起床し着替えもせず大好きな工作を始めます。私は「早く着替えなさい」と毎朝二十回も言ってしまいとても情けなくなります。しかも言い方がだんだん大きく、きつくなるのです。でも「ママ、しつこく言い過ぎてゴメンネ」と謝ると直ぐに「うん」とうなずいて赦してくれるので子どもは心が澄んでいるのだなあと感心します。本当はたまに上手に工作できた時や、お友達に優しくして上げた時にたくさん誉めてあげた方が、彼にとって何倍も効果があるのになあと隆志の寝顔を見ながら反省している一児の母なのであります。もっと長い目で見てボーマンさんのように微笑みながら穏やかな声で「早くお着替えをしようね。今日はお誕生日会もあるわよ、誰のお誕生日かな?」とか言える様になりたいです。今年の私の目標は「穏やかな声で話す」です。
     わが主の み誓い 永遠にかたし、
     主こそはわが盾、つきぬ望み。
             (讃美歌21 451番「くすしきみ恵み」より)
(とよだ なおこ)

道・未知・満ち
池田 淳哉
 12月上旬、みつばさの原稿依頼を頂いた時、正直かなりとまどいました。僕の中には、以前からこれは教会員の方が書くものだという先入観があったからです。しかし、いざペンをとると、いつもの如く、なんとかなると楽観的に考えていましたが、文章を作ってみると、あまりの文章力のなさに試行錯誤の連続で、最終的には、ギリギリになってしまいました。
 「夢が広がる」というテーマは、身近な話ですが、近すぎて分からなかったけれど、これを書いたことにより、自分を見つめ直すことができました。
 ある本で、仕事を選ぶ上で幸せなことは、趣味と仕事が同じで両立している事とありました。最近、その考えにとても執着していて、趣味の延長に仕事を求めたいと思っています。『No Book No Life』これは、僕にとって、夢に向かうキーワードであると同時に、生きていく上でも切実なものです。この想いがあるからこそ、仕事と趣味の両立という考えに執着しているんだと思います。
 僕は幼稚園の頃から教会に通っていて、何らかの影響を、自分で感じていないだけで、受けていたのかもしれません。大学受験時、何としてもキリスト教系の大学に行きたかったのです。その頃は、キリスト教に対する想いは希薄だったはず…なのにです。たぶんそれは『主が自分を支えていてくださる』という想いが、具現化していなかっただけで、心の隅にはあったのかもしれないと思うのです。
 僕の大学は、仏教色が強いところですが、KGKのサークルもあり、聖研を週一でやっていました。僕は、性格的にいつも受身ですが、折角機会あって入ったことだし、様々な人達とふれあい、自分のキリスト教に対する想いを見つめるいい機会だと思いました。その過程で、聖研の先輩が、就活の面接で、自分にとってクリスチャンであることは、どういうことなのかと聞かれたと話してくれました。それを聞いて、僕が思ったことは、受洗後の自分の姿が見えないというコトと、自分の信じる神が唯一のものであるという明確な位置づけが、まだできていないというコトです。このように、僕はまだ信仰の面・趣味と仕事の両立の面の両方において、はっきりした想いがあるわけでもなく、かなり中途半端ですが、その中にあって、『No Book No Life』これを糧に、自分なりの信仰を深め、日曜日に教会へ行くという現実を大切にして、夢に向かって翔(はばたい)いていきたいと思います。   
(いけだ じゅんや)

自分探しの旅
長井 清美
 私にとって昨年は、やっと自分と向き合える心と時間の余裕が持てた年でした。「立ち帰る」という言葉を、神様からいただき、思いめぐらしました。いろいろな意味にとれますが、「初心に」「神に」「初めの愛に」「自分に」「原点に」…。その中で大切にしたいと思ったのは「自分に」でした。もっと自分を見つめ、もっと自分の心の中を知りたい、私の中の核となっているものに触れたいと思い一年を過しました。その中で少しずつ見えてきた自分、変らない自分、未開発な自分などがいました。
 特に注目したのは、少しずつ見えてきた自分でした。自分がアダルト・チルドレン(AC)だと分った時には驚きましたが、納得できるものでした。ACというのはアルコール依存症の家庭で育った子どもの場合と、機能不全家庭で育った場合とありますが、私は後者のACです。家庭が、子どもが安心して育っていける環境ではない場合、子どもは十分に子どもとして甘えたり、我ままを言ったり、やんちゃをしたりできないので、心の成長がストップしてしまいます。体や頭脳は人並みに成長しますが、心は子どものままなのです。自立した大人になれないまま大人になってしまいます。そこから生じる生きづらさを抱えて生きていくのは、大変苦しいことでした。ACというのは病名ではなく、自分がACだと認めれば、立派なACなのです。
 かのクリントン元大統領もACだったそうですから、世の中けっこうACの人はいるようです。親を含めて人間関係がうまくいかない、何か生きづらさを抱えながら、心の中はいつも不安なのです。ACだと分ると「なんだ、そうだったのか」と腑に落ちるのです。子どもの時に十分に子どもをやってこなかったので、私の中の子どもを大切にして、我ままを言っても、甘えてもいいよと声をかけてあげます。そして一杯楽しい思いをさせてあげたいのです。「アー楽しかった!」と心から喜べるとき、私の中の子どもが喜んでいるのです。その作業を続けていくうちに、自立した大人へと成長できたらいいなと思います。歳をとると子どもになると言いますから、ずーっと子どものままでいるかもしれません。それはそれでとっても幸せなことだと思います。
 ACだったから、神様は迷い子の一匹の羊のような私を憐れみ、救いへと導いて下さったのです。神様が与えて下さったものと感謝して受け入れたいと思います。
 今年も日毎の心の糧と共に、自分探しの旅を続けたいと思います。
(ながい きよみ)

越谷教会月報みつばさ2005年1月号特集「夢が広がる」より


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