今月の特集題  主のあわれみ中で



あわれみを日々感じて
橋爪 協子
 仕事をしている期間、私は、何の奉仕も出来ませんでした。だから、いつも、ご奉仕して下さっている方々に感謝し、自分は出来ていないという心苦しさの中にいました。
 そんな私には、このテーマ、書けないよと思っていたのですが、「先程おひとりの方に断られました」との一柳姉のか細い声に負けてしまって・・・。
 今、私は、婦人会の交わりの中にいますが、諸姉妹達の知恵と迫力に日々驚かされています。皆様の信仰を礎とした強さに脱帽。
 例会での堂々とした発言、元気溌剌ぶり、積極的な行動、個性的な才能、私の知らないところで担当されている数々のご奉仕、感謝しながらの日々です。
 私は、婦人会便りと週一回の週報が、唯一のささやかな奉仕。
 先日森谷姉から「家庭集会に来ませんか」とお誘いを受けました。でも、多くが、他の活動で埋まってしまっているのでお断りしました。これがまた心苦しいのです。
 多分このテーマは、私にとって懺悔文になりそう。
 高校生の頃、それなりに勉強に明け暮れし、寝不足のまま礼拝に出ると当然こっくりこっくり。
 「かあちゃん、行ったってどうせ寝ているだけだから意味ないよ、休むね」。
 「寝ていてもいいよ。神様はわかって下さるんだから」。
 まいった、まいった。出来れば逃げたい、休みたい、寝ていたいと思っていた高校生の私には救いでした。
 案の定、その日も途中からすやすや。でも、そんな日があったから、信仰を持ち続けることが出来たような気がします。
 今の私、相も変わらず高校生のままのすやすや状態。
 この世のことに追われている、みこころではないのでは・・・、居場所を間違えているのでは・・・。
 神様、ごめんなさい、今、やらなくてはならないことがあるの、だから・・・。心苦しさと懺悔の中で、まさに主のあわれみを日々感じ、感謝し、求めている私です。
 《み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。》(口語訳詩篇27編9節)
(はしづめ きょうこ)

三年間の歩みを通して
豊川 昭夫
 私は、昔から人に頼まれごとをされる事が多いほうです。基本的に断りませんのでどんどん依頼されます。しかし、人は私の事をよく見ています。何故なら、こんなにもいろんな事を頼まれるのに、お金の無心は皆無と云っていい程です。やはり持っていない事を知っているのですね。
 そんな訳ですから、今回のみつばさの原稿依頼も妻から「委員会でお父さんに書いて欲しいという意見が出たので書いてね」と言われ、即引き受けました。タイトルは「主のあわれみの中で」ということ。今、一番主のあわれみを感じるのは・・・やはり十二年間応援して昨年やっと優勝した浦和レッズのことと、次男が高校入試に落ちると思っていて私立の入学金を用意していたらナント受かってしまいウン十万円得したこと。よし!これを中心にして私の頭の中でほぼ文章の全体像が出来上がった頃、妻が一言。「あー、そうそう、内容は伝道牧会委員会の三年間の委員長の務めを終えてのことね」。おいおい、肝心の事を早く言ってくれよ!貴重なみつばさの行数が減ってしまったではないか。仕切り直し!
 さて、伝道牧会委員会のこの三年間の歩みを振り返ると、まず鎌田先生に感謝したい。鎌田牧師の追悼文集でも書かせて頂いたが、鎌田牧師が委員会にご出席頂けるようになった時、日常的な奉仕に加え次の事柄に取り組むことを提案されました。@新しく教会へ来られた方への対応A受洗者の受洗後の対応B長期礼拝欠席者への対応。委員会では、これらの事柄に対して三ヵ年計画を立てて取り組みました。結果、@では教会案内の全面改訂を作成。Aでは、受洗者には二年間委員がマンツーマンで対応。Bでは、みつばさの発送等が決まりました。主イエスの十字架と復活に生かされた私達が、主イエスの愛と寛容を持ち、相手の立場に立って伝道されるよう先生は指導されましたことに感謝します。
 次に至らない者を委員長として迎えながら献身的に奉仕をされた委員の方々に感謝したい。どんな奉仕も、惜しみなくこつこつと努力されるお姿に学ばさせて頂きました。  
 三年間を振り返ってみると、ここにもあそこにも主の憐れみと、委員の方々の憐れみの中で過ごせましたことを実感します。私もこの信仰の先輩方と繋がって歩みたいと強く願っています。
 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6章36節)

(とよかわ あきお)

観念しなさい
一柳 民恵
 私は、この越谷の地に産み落とされて早、六十年を過ぎ、越谷で通常に生活していくすべはなんとか身に付けてきたようですが、先日テレビでビートたけしの「地球極限SP人類20万年!奇跡の旅」というのを見ていた時、ふと思わされたのが、「民恵さん、ちょっと目の位置を変えてごらん」って。
 主婦の仕事に追われて、やれやれ、いい仕事しましたね〜、なんて思ったって、明日私が倒れたら三日も経たないうちに全てぐちゃぐちゃにくずれてしまうものでして、悲しい努力をしているんですよね〜。
 極限の地で生きている人達は合理的で、いっさいをそぎ落とした生き方です。まさに神によって養われていると見えました。
 北極圏、グリーンランドのイヌイットの人はあざらしを食料にして命を保っているのだそうです。女性たちが口のまわりを血で真っ赤にして、にぎやかに食事をしている様は圧巻でありました。
 固定観念を破り、毎日の関連動作から解き放たれて、フリーになってみたいですね。
 毎日の雑用でくたびれはてて後、神様、わたしの居るべき所はどこですか、へとへとで、使いものになりません、でも何か御用をしなくちゃと、わけの分らないことをいって神様のおじゃまばかりをしている自分がかなしい・・・。
 足りないものだらけの私ですが、今、痛感させられていることがあります。何よりも欠けているのが祈り、そして、本当の救いを知らない、どうしても、ど、ど、どうしても伝えなければ居られないという、ほんものの愛をまだ私は受け取ったという自覚がないのです。こんなにさめていていいはずはないのですから。
 分かっています、それはきっと自分の罪を覆うのにやっきになって自分をだましているのです。
 「主にゆだねよ、主を信頼せよ」と。皆さんのように燃える信仰はないけれど最後のときまで教会につながっていたい、時には引きずられるように、時には賛美の声を高らかに。
 リラックスして素直な目でこれからの信仰生活をおくることができたら最高なのですが、そしたら、いつしか神様の愛に触れ、救いを味わい、やがて召されて行きましたと。
 全てのことは主のあわれみの中で、お任せいたします。
(いちやなぎ たみえ)

越谷教会月報みつばさ2005年4月号特集「主のあわれみの中で」より


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