今月の特集題  弁護者



御手のうちに
酒井みよこ
 夫との二ヶ月余りの闘病生活を思い返してみますと、それは人間の知恵や力だけではない、神様の助け ― 聖霊のはたらきかけがあったことを思います。
 私は両親のガン体験があっても、夫の末期ガンの告知をどうすべきか、あまりの結果に語ることのできない状態でした。そこで最初は病棟医長の先生に相談して、この程度の話をして欲しいと依頼しました。そして次の段階を考えていたある日、病院へ行く電車内の広告に「テンダー・ラブ、日野原重明著の中にガンの告知について」の項目が目に止まりました。早速買い求めて、読んだところやはり私の口から伝えるのがベストであると示され、そのことを実行しようとした時、私はどう話すべきか解らず、しかし語らなくてはならない、でも自分の力だけではできない弱い私を助けてもらうには、祈っていただく他にはないと思いました。
 結婚の時にもご相談にのっていただいた小海牧師に、電話で涙声で祈ってください…と言って力づけてもらって、病室へ直行したものの、その直前でさらにトイレに入って神様…と祈ってやっと語ることができたあの時。
 そして告知をした時、即座に抗がん剤や放射線治療ではなく、自然療法をしたいと希望したことが、必要ではないかもと思いながらも予約をとっておいた日時が、夫が願った翌日であったこと。そして女子医大付属青山自然医療研究所クリニックで、川嶋医師の診療を受けてすぐにお推めのものを実行できたことによって、召天するまでの四十日間の末期ガン状態の中で、さほど痛みや苦しみを感じずにすごせましたこと、それからリンパ節に転移した腫瘍が窒息状態を引き起こしかねない状態であることを指摘され、事前に呼吸確保をする手術について、残された余命が二ヶ月以上であれば手術の意味があるが一ケ月程の場合は意味がないことだと教えられても、それではその手術をすべきか否かは判断が難しい中で、夫の希望を第一に考えて、その手術の予約をキャンセルしたことが一番良い選択をしたのだと後日分かった事実。
 しかしこのキャンセルと同時に、抗がん剤や放射線治療を拒否した患者としては、そのことをもって経営している青山病院にはこれ以上入院していられない状況でもありました。
私としましては、最後まで人間としての尊厳を保てるところとして、緩和ケア病棟やホスピス病棟へ転院したいと思っていましたので、数ヶ所の病院に問い合わせや、相談に行ったりしていましたがいずれもそこへ転院するには早くても、一ヶ月位は待たないと入れない状況でした。そのような中で、二月一日に相談に伺った清瀬市にある信愛病院でケースワーカーの方との面談で、心血を注いでお働きなさった川端牧師夫妻が今私の通っている教会にいらっしゃることを語ったことがきっかけとなり、院長先生の緊急面談に入れていただくことになり、緩和ケア病棟に転院することへ通じたのです。このギリギリのところで神様がそなえてくださった恵みに涙が止まりませんでした。
 そして緩和ケア病棟では清瀬信愛教会の本宮牧師が毎日来て下さって、夫の手に触れて祈りを捧げてくださったこと等、他に記すことのできない多くの事柄もすべて御霊のお働きに助けられて過ごさせて頂いたことを思い感謝です。
(さかい みよこ)

恵みに気付く訓練
江原 史雄
 聖霊なる神様について、という原稿の依頼でした。私自身このお方のことを、書物や、話でいろいろと聞いてきました。そうして、さまざまな、興味あることも学びました。しかし、現実の信仰生活に、このお方が、どのようにかかわって下さっているかということが、問題です。そのことを考える時、聖霊は、私の信仰にかかわっていると、思わされます。神様は私たちを越えてはるかに大きな方ですから、私が信じようと、信じまいと、私を生かし、導いて下さっておられると思いますが、しかし、人格的なお方ですから、私の思いを無視してかかわられることを喜ばれず、私との信頼関係の中で働いて下さる方だと思います。
 私たちはそれなりの年月を生かされてくると、自分はどうゆう人間で、どんな賜物があり、又何が欠けているかを知らされます。その自分を造り、生かして下さっているお方に、感謝しつつその賜物をささげていく、そこに聖霊様は働いて下さるのでしょう。
 テサロニケ一 5章16〜19節(口語訳)に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」とあります。このみことばは生まれながらの人間の心で聞けば、しらけてしまうみことばです。しかし、これが、神様の私たちへの奨めです。ですからその次に「これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。」と書かれています。
 神様を賛美し、感謝していく訓練を求められています。なぜなら私たちの生まれながらの心は、我がままで、正反対だからです。出エジプトの民は、いつもぐちとつぶやきを言い続けて滅ぼされてしまいました。それと対照的に聖書には、民が賛美をささげていく時、神様が力強く働いて下さったという記事がたくさん出てきます。それは、感謝と賛美とが神への信仰の最高の現われだからでしょう。
 しかし、弱い私たちには感謝できない時、祈れない時もあります。そういう私たちのために、神様は、祈りの霊を下さいました。ロマ書8章26節にどう祈ったらいいかわからない時、御霊がうめいて下さるとあります。そしてパウロは、霊で祈ると共に、知性でも祈ろうと言っています。これがペンテコステの時に、弟子達に与えられた聖霊による祈りです。神様は、イエス様によって、ここまでわたしたちにして下さったのです。
(えはら ふみお)

越谷教会月報みつばさ2005年6月号特集「弁護者」より


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