今月の特集題  聖霊に押し出されて



名は題を表す
浅川 信秀
 私の名前は「信じる・秀でる」と書きます。立派すぎて、未だ有名無実故に恥かしいばかりです。そもそも、この名を授けた父は、キリスト教とは無縁で、信長と秀吉を合わせたのだと聞かされました。その一方で、片クリの母は、内心実に良い名前だと満足していたようです。まったく、我が両親ながら上手くしたものだと感心すると共に、神様への道を運命付けられていたようにも思え、とてもうれしくなります。
 しかし、当の本人は二十歳を過ぎるまでは、その真意を誤解していたようで、何せ、自分を信じることに長けており、自信を通り越して過信の塊という子どもでした。自分に出来ないことはない。世界は自分中心なのだと、正に「俺様道」の免許皆伝という具合です。思春期以降は、親の言うことにも耳を貸さなくなる始末ですから、さすがの神様も見かねて様々な学びを与えてくださいました。大学時代は、数多くの仲間を通じて、人間関係の難しさなど「思い通りにならないこと」を突きつけられました。そして、社会人になり自分の生き方や歩き方について悩まされ「思い通りにできない」歯痒さを知りました。そうして少しずつ、人並みになりかけた頃、父の他界によって「自分の無力さ」を教えられ、命についても深く考えるようになりました。
 ようやく「信じる」という意味について分かりかけたのはつい最近ですが、少し格好付ければ、裏切られたと思うことは、同時に相手を信じることを止めてしまったのと同じです。結局、自分も相手を裏切っているのと同じではないでしょうか。いつまでも何度でも相手を信じられるようになりたいと、思います。
 今は、その相手に確固たる神様がいて下さり、どうやら自分の信じる気持ちにも少し光が差してきたようです。先日、三浦綾子さんの著書『愛すること、信ずること』を再読しました。夫婦の指南書の様な物を、独身の私が読むというのも滑稽ですが、信じるということを改めて考えさせられます。この弱い自分が絶対の確信を持って言える事など一つもないかもしれませんが、それでも尚、胸を張って言えるとすれば「信じるって尊い」ということです。そして今、私の信じる先に神様がいて下さることが、とても幸せです。万が一信仰にかげりが差しても、自分の名前は変わりません。神様に背こうとしたら、自分の名前を捨てなければなりません。これはちょっと、難しそうです。そんな訳ですから、歩みはのろくとも、自信満々に神様を賛美してしまいます。あっ、また悪い癖が・・・。私が謙虚になれる日は、まだまだ先になりそうです。
 父よ、尊い名前をありがとう。

*片クリ=配偶者がノンクリスチャン
(あさかわ のぶひで)

介護の現場から
岡田めぐみ
 介護の仕事を続けて十数年になるが、未だに満足のいく仕事ができず落ち込む事も多い。
 決められた時間内にテキパキと仕事を終わらせることができなかったり、適切なアドバイスや対応ができなかったり・・・等々。もちろん努力はしているが、そう何もかもうまくいく訳ではない。最近では、それに加えて精神的、肉体的疲労を感じる事が多くなった。
 私は在宅で介護を必要とされている高齢者や障がい者の介護を行う訪問介護ヘルパーの仕事をしているが、ここ数カ月の間で、介護を取り巻く状況はかなり様変わりしてきた。法改正により比較的介護度の低い方(ほぼ自立して身の回りの事ができる方)に関しては今まで受けてきたサービスが全く受けられなくなったり、介護度が高い方でも行政の目が厳しくなりサービスが制限されてきている。実際私たちが行おうとしているサービスと、介護される方やその家族の方々の望むサービスが一致しなくなってきているのだ。今まで「手伝ってあげましょう」「お世話してあげましょう」といったボランティア的な要素の強かったヘルパーが、今や自立を支えるための杖のような役割である事を要求される。決して手を出し過ぎず、見守りながら生かせる機能を十分に生かしてもらい元気になっていただこうという訳だ。言葉にすれば理想的な目標ではあるが、実際に現場で働く人間にとっては戸惑いを感じざるを得ない。
 更にもう一つの悩みのタネが腰痛。職業病と言われればそれまでだが、これが結構辛い。私が担当している方の中には毎日入浴を希望される方が多く、ヘルパーも一人ないし二人で対応するが、それでも施設のように設備の整っていない一般の家庭での入浴介助は身体に驚くほど負担がかかる。なのに、「あの方を抱えられるの岡田さんしかいないわ」なんて言われると「はい、行きます」と言ってしまうし「あなたが来てくれると安心」なんて言われても「はい、また来ます」と言ってしまうのだ。こんな時、大きく元気に育ったわが身を神に感謝しつつも華奢に生れなかった事を少し後悔する。
 なんだか愚痴ばかり書いているが、それでもこの先ずっとこの仕事を続けているんだろうなと思う。
「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤの信徒への手紙5章25節)
 元来ぐうたらで何事にも一生懸命になれなかった私に、神様はこの仕事を与えてくださり、私を必要として下さる方の下に向かわせて下さった。このささやかな生活の中に聖霊は確かに働いて、私を支え導いて下さる。その事を信じつつ、明日も笑顔で頑張ろう。
(おかだ めぐみ)



越谷教会月報みつばさ2006年7月号特集「聖霊に押し出されて」より


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