今月の特集題  光の子・希望の子



イエス様と共に生きることの現実的たのしみ
横田 和弘
 まず初めに、客員会員である私に、このような行数を割いて頂けますこと、感謝申し上げます。
 教会学校に子どもを通わせる親の思い、ということですが、正直申しまして、複雑な面もあることも事実です。イエス様の元に集まる幼子達を制してはならない、という聖書の記述のように、自発的に教会学校へ行くのなら、まさに”制しない“のでありますが、実際はそうではありません。幼稚園から行っているのだから、これからも集い続けよう、と説得しているのが現状です。また、教会につながり続けることで、やがてキリスト者として光を放ち、自分の身の回りにイエス様の香りを漂わせる、ということを子どもに期待することも、キリスト者として四半世紀を送っている私自身の姿を顧みても、自分の人間的判断から考えると「難しい」だろうと思います。当然、そうあって欲しいなあ、とは思っておりますが。
 それでは、なぜ教会学校に子どもを集わせているのか。それは、今述べた、そうあって欲しい(でも、そうならなくても仕方ない、これらは全て私の人間的判断)という思いと共に、聖書の中の一つ一つの話を、教養として身に付けられればいいなあ、という思いからでもあります。私自身、何かの問題があって教会の門を叩いた訳ではなく、世界史で教わったキリスト教の拡大の根底を成すパウロの伝道の使徒行伝中の記述や、大好きなルネサンス・バロック音楽の根底を流れるキリスト教信仰からの影響を知りたくて教会に集うようになりました。だから、バッハの各々のカンタータが聖書のどの部分を取り上げているのか、を見つけた時は、心踊る思いでしたし、ヨーロッパの大聖堂のステンドグラスに描かれている場面は、聖書の知識無しには理解できませんし、絵画や文学においても同様です。また、聖書物語の各々には、語られていない夢があります。例えば、東方三博士はその後どうなったのか(キリスト教に改宗し遺骨は現在ケルン大聖堂に保管)。復活のイエスを疑ったトマスのその後(インド方向に伝道に行き行方不明)。使徒ヤコブのその後と遺骨発見の経緯、等はヨーロッパ人の精神の根底を流れ、中世という祈りの時代を築き、その後の華麗な時代を経て、グリム兄弟により精神文化の再発見という形で民俗学へと発展し、その手法は我々日本人にも影響を与え、柳田国男等の日本民俗学として確立し、さらに、東南アジア、ボリネシアへと道を拡め、大海原を渡る民族学へと発展しています。現在、子供達が興じるテレビゲームにもシリーズ物とかがありはするのですが、後世に影響を残すことは無いでしょう。少しでも聖書の風の香りに触れさせたいという思いからです。 
(よこた かずひろ)

ずっとつながっていてほしい
田坂 順子
 教会学校小学科の礼拝は、9時15分から始まり、その後学年毎に分級となります。礼拝はきちんと守り、分級は紙芝居・ゲーム・おしゃべり・なわとび等の楽しい時にしています。礼拝のお話の準備の時は大変です。以前、ある青年教師が言った「祈って祈って、祈りまくるんです」の言葉が忘れられません。そうしないとできないことです。与えられたこの奉仕は18才の時からですが、お話の前は冷たい汗が流れ、慣れるということがありません。
 ある牧師が神学生達を前に「説教を準備する者は、どう語ろうかと聖書を読むのではなく、まず自分がみ言葉に聴く者となるように」と語られたそうです。自分がみ言葉をどう聴くか…語る自分の信仰が問われることにはっとさせられます。礼拝姿勢が問われています。
 教師達の間で、誰かれとなく子ども達にいう言葉があります。「大きくなったら一緒に教会学校の先生をやろうよ」と。また、昔から秘伝のゲームの種明かしを迫る子どもには、「先生になったら教えるよ」と。
 幼稚園の運動会やバザーに、遠のいている子どもの姿を見つけると「○○君が来ているね」と喜び合います。たとえ、礼拝に来られなくなっていても、何かの時に思い出して、再び足を向けてほしい、と教師達は思っています。できるなら、ずっと教会につながっていてほしいと願っています。
 教会員のある方がくださった本の中に、あるビジネスマンが自分の半生をふり返って書いた「おれ達がどうにか真っすぐにやってこれたのは、幼児期にキリスト教の日曜学校に行っていたせいじゃないかなあ…。とくに最近そう思うよ」という一文がありました。深い喜びを与えられる文章です。多くの子ども達がきっと、教会学校のことを覚えていてくれると信じています。願わくは、いつでももどってきてほしいと思っています。
 私が教会学校に関わりを持つようになった頃の口語訳、伝道の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」とあり、このみ言葉が、子ども達との関わりの中でいつも心にあります。一人でも多くの子ども達に、造り主を覚えてほしいのです。教会につながり、主の愛を感じるこの恵みを、子ども達に伝えずにはいられないのです。
 教会学校と共に何十年という月日が経ちました。能力も体力も小さな者をお用いくださる神さま、ささえ合う仲間達に感謝があふれます。み心ならば、今しばらくこの心身を整えてお用いください、と祈ります。
 神さまに愛されている大切な子ども達一人ひとり、光の子、希望の子ども達。この子ども達と共に育っていく者でありたいと思います。    
(たさか じゅんこ)



越谷教会月報みつばさ2006年11月号特集「光の子・希望の子」より


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