今月の特集題 光の子・希望の子
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横田 和弘 |
まず初めに、客員会員である私に、このような行数を割いて頂けますこと、感謝申し上げます。![]() それでは、なぜ教会学校に子どもを集わせているのか。それは、今述べた、そうあって欲しい(でも、そうならなくても仕方ない、これらは全て私の人間的判断)という思いと共に、聖書の中の一つ一つの話を、教養として身に付けられればいいなあ、という思いからでもあります。私自身、何かの問題があって教会の門を叩いた訳ではなく、世界史で教わったキリスト教の拡大の根底を成すパウロの伝道の使徒行伝中の記述や、大好きなルネサンス・バロック音楽の根底を流れるキリスト教信仰からの影響を知りたくて教会に集うようになりました。だから、バッハの各々のカンタータが聖書のどの部分を取り上げているのか、を見つけた ![]() |
(よこた かずひろ) |
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田坂 順子 |
教会学校小学科の礼拝は、9時15分から始まり、その後学年毎に分級となります。礼拝はきちんと守り、分級は紙芝居・ゲーム・おしゃべり・なわとび等の楽しい時にしています。礼拝のお話の準備の時は大変です。以前、ある青年教師が言った「祈って祈って、祈りまくるん![]() ある牧師が神学生達を前に「説教を準備する者は、どう語ろうかと聖書を読むのではなく、まず自分がみ言葉に聴く者となるように」と語られたそうです。自分がみ言葉をどう聴くか…語る自分の信仰が問われることにはっとさせられます。礼拝姿勢が問われています。 教師達の間で、誰かれとなく子ども達にいう言葉があります。「大きくなったら一緒に教会学校の先生をやろうよ」と。また、昔から秘伝のゲームの種明かしを迫る子どもには、「先生になったら教えるよ」と。 幼稚園の運動会やバザーに、遠のいている子どもの姿を見つけると「○○君が来ているね」と喜び合います。たとえ、礼拝に来られなくなっていても、何かの時に思い出して、再び足を向けてほしい、と教師達は思っています。できるなら、ずっと教会につながっていてほしいと願っています。 教会員のある方がくださった本の中に、あるビジネスマンが自分の半生をふり返って書いた「おれ達がどうにか真っすぐにやってこれたのは、幼児期にキリスト教の日曜学校に行っていたせいじゃないかなあ…。とくに最近そう思うよ」という一文がありました。深い喜びを与えられる文章です。多くの子ども達がきっと、教会学校のことを覚えていてくれると信じています。願わくは、いつでももどってきてほしいと思っています。 ![]() 教会学校と共に何十年という月日が経ちました。能力も体力も小さな者をお用いくださる神さま、ささえ合う仲間達に感謝があふれます。み心ならば、今しばらくこの心身を整えてお用いください、と祈ります。 神さまに愛されている大切な子ども達一人ひとり、光の子、希望の子ども達。この子ども達と共に育っていく者でありたいと思います。 |
(たさか じゅんこ) |
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越谷教会月報みつばさ2006年11月号特集「光の子・希望の子」より |
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