今月の特集題  御霊の働きに支えられて



「神さまの息吹」に生かされて
関口 幸子
 「聖霊の働きに支えられて」という崇高なテーマを頂き、正直困っていました。
 そんな私でしたが、ペンテコステの礼拝で「五旬祭に聖霊を受けた弟子たちは、自分の故郷の言葉で、神の偉大な業を語った」という御言葉に出会いました。
 そうです。私も自分の救いについて書けばよいのです。
 私が今、ここにこうしてあるのは「聖霊」の導き以外の何者でもありません。
 ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2・38)と語っています。
 ということは、私はすでに受洗によって「聖霊の賜物」を受けているのです。
 それにもかかわらず、私は日々小さな事に心を騒がせ、サタンの甘いささやきに、誘われやすい愚かな者なのです。
 それどころかトマスのように「復活のイエスさまに出会うまでは復活を信じない」と長い間、心をかたくなにしていました。
 そんな私に、神さまは「弁護者」であり「助け主」(口語訳ヨハネによる福音書15・26)である「聖霊」をひたすら送り続けていてくださったのです。
 ひとりで聖書を読んでいると「復活のイエスさまが共にいてくださる」ということが見ないで信じられるようになりました。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28・20b)という御言葉が「聖霊」の助けによって私の現実となりました。
 日曜日ごとの聖日礼拝で、奏楽に感動し、語られる御言葉によって、病んでいた心がいやされ、讃美歌に励まされる。さらに聖餐式でイエスさまの十字架の出来事を追体験し、罪の赦しの宣言を聞く。まさにこの礼拝の時が「聖霊」の導きで「いこいのみぎわに伴なわれる。」(口語訳詩編23・2b)という至福の時になったのです。
 「聖霊」のことをカトリックの晴佐久神父は、落ち度がない、パーフェクトである「親心」(『希望はここにある』)だといわれました。
 私は「聖霊」は「神さまの息吹」だと思うのです。創世記では「土の塵で造られた人(アダム)が神さまの『命の息』によって生きる者となった。」と。
 またエゼキエル書では「枯れた骨」といわれる民に向かって、神さまは「わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。」(口語訳37・5b)とあります。
 私たちは「神さまの息吹」、「聖霊」の助けがなくては生きられないのです。
 これからも私は、十字架のイエスさまを仰ぎ見つつ「聖霊」の導きに支えられて、生きていけたらと思うのです。
(せきぐち ゆきこ)

神を主として心に迎える
江原 史雄
 最近読んだ本の中に、忠臣蔵の大石良雄の歌がのっていた。それは
   見れば只何の苦もなき水鳥の
      足にひまなき我が思いかな
という歌である。人の目には、日夜遊里に身をおき、遊蕩三昧のその日暮らし、主家のこと仇討ちのことなど全く忘れ果ててしまったように見えていて、その心中はただ仇討ちのことを思って、休むひまとてなかったというのである。
 キリスト者である著者は、この歌をこのように歌いなおしている。 「見れば只何の苦もなき水鳥の 足にひまなき我が祈りかな」この大石良雄の歌と、著者の言葉を聞いてしばし考えさせられたのである。パウロも絶えず祈りなさいとすすめている。絶えず祈れとは、いつも祈っておれと言うことである。そんなことできるだろうか、人間にはできないことである。しかし、先の水鳥のごとく、キリスト者の歩みは、人知れずささげられる祈りに依っている。なぜならキリストを主人とすることを喜ばない自分がいつもそばにいるからである。キリストを主人としなければ、その助け主なる御霊はどうなるだろうか、
 榎本保郎という牧師もこういうことを言っている。祈りで一番大事なことは、自分を神様に明け渡すことだ。船のかじを取る船長の座を、キリスト様に明け渡すこと、これが祈りの大切な働きなのだ。私たちは、すぐキリスト様をそっちのけにして、自分が船長の座に座ってしまう者である。だから事が起こるとあわてふためいてしまうのである。
 この度、この原稿を依頼されて、最初に思わされたことは、困ったなあという思いであった。それは今書いたように、主との良い関係に自分自身がいなかったからである。自分のやりたいことが第一になっていたり、人に良く思われたいと、人が第一になっていたり、いかに心は神に向かわず、この世のもろもろにふり廻されていることかと思わされるのである。
 しかし神様は、ふさわしくないことは、なさらないお方である。こういう私だから今がピッタリのタイミングと、この原稿依頼が来たのだと思う。そうして本当に、御霊の導きのもとに生きる者となるようにと願っていて下さることを思わされる。
 ローマの信徒への手紙8章26節には、御霊は、私たちの弱いところに来て、どう祈ったらいいのかわからないでいる私に、その祈り方を教えて下さるとある。
 このように、御霊は、私たちの弱さを全部知っていて下さり、その弱さにいつも同行していて下さる方であることを思う。そうして事あるごとに、何事も父に話せるようにそなえていて下さっていることを思う。
 こんなありがたい御霊が、たえず一緒にいて下さるのだからキリストを主とする信仰に、しっかりと立っていきたいと願う者である。      
(えはら のぶお)

越谷教会月報みつばさ2007年6月号特集「御霊の働きに支えられて」より


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