今月の特集題  私の居場所



主を信じきる所
鈴木 恵子
 「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光。」(ミカ書7章8節)
 私達は生きていく中で色々な闇に遭遇する。小さな家庭でさえも、病人の介護に疲れ果てる、子どもの引きこもり、家庭内暴力、不倫、買物依存、過剰債務等々。数えきれない出口の見出せない深い闇に、時に自分の居場所を見失う。しかし「たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」である。私達の力では解決出来ない闇に、上よりの光が射し込まれる。この恵みの光がある故に過酷な試練をも乗り越えられる。
 主イエスは告別説教のはじめに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネによる福音書14章1〜2節)と不安におびえる弟子達に信仰の光を射し込んで下さった。信じる心が強められるならば、「たとえ死の陰の谷を行くときも」インマヌエルの主と共にあり、そこは最高の居場所になる。神を信じきるならば、たとえ矛盾や無理解、侮辱の大嵐に立たされても自分の居場所はゆるがない。何故なら主イエスが誰よりも先にそれ等の苦しみは経験され、なおかつすでに勝利されているからだ。
 この様に述べるとまったく迷いがない様に見える。確かに勝浦教会での4年間は御言葉に聴き聖霊のお導きに従う中で、時に涙しても居場所を疑う事はなかった。今、勝浦を辞し、母教会で豊かな礼拝に与る時、「あなたはここで何をしているのか」(口語訳・列王記上19章9節)とふと心に浮かぶ。エリヤがイゼベルを恐れて逃亡した時の主の御言葉だ。しかし全てをご存知の主は「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3章1節)とお慰め下さる。今は病む夫に寄り添う時と。今迄、家族伝道、信仰の継承を真剣に願ったかと問われる。遠くの人を愛しても、同じ屋根の下に居る家族に優しい言葉がかけられたかと。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。」(コロサイの信徒への手紙3章18節)と居場所を示される。目立たぬ地味な場である。呟きと吐息が出そうである。
 周囲には認知症の老親の世話、難病のご家族の看病を必死にされている方々がいる。しかし、私達はその場に一人でいるのではない。主が、友なるイエスが共に支えていて下さる。この友は決して裏切る事なく、ご自身の命までもささげて、私達を「わたしの友」と呼んで下さった。(ヨハネによる福音書15章15節)この真実な友と歩むならば闇より光に引き上げられる。信仰の愛の実が結ばれる事を信じる。
 その場が教会であれ、社会であれ、家庭であれ、いずこにあっても、主を信じきる所、そこが私の居場所である。
(すずき けいこ)

神に義とされた人
岡林 信雄
 日照りが続く夕方、いつもの様に散水しようと準備の為水道に向かって歩いていると、隣家との堺の所を隣家に向かって、蛇が這っているところに出合いました。数年に一度最近はほとんど無かったので怖く驚きました。蛇は苦手と言うか出来れば遭遇したくない動物です。英国に駐在した人によれば、英国には蛇はいないそうです。
 聖書では、蛇の誘惑によって、神から、取って食べるなと命じられた木から実を取って食べ「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」となってしまったことが書かれています。神様に対して、罪を侵し(不義を成す)てしまったために、神の顔を避けたアダム、神に対して義人として認められていれば神の顔を避ける必要も無く、「どこにいるのか」と呼ばれることも無かったと思います。
 戦前の聖書研究家で、説教者の藤井武全集第十巻(矢内原忠雄編集)のルーテル研究(トマス・トマスリンゼー原著の「ルーテルの生涯及び事業」より)では、ダマスコ途上のサウロの体験に似たストッテルハイム村(エルフルト近郊)での体験の後エルホルト修道院に入り自分の為すべき唯一の為すべき事、使命として寸毫の疑いも持たず、熱心に修道院生活に身を投じ、教えられた儀礼をそれぞれ実施し、服従実行し断食し祈祷、そして鞭撻と不眠をも甘受し、飲まず食わずで三昼夜を過ごした修行らしきものも実行し「もし僧侶がその僧侶生活をもって天国に入る事ができるなら私は到達した」と言った。さりながら彼は少しも神に近づいたような感じがせず、罪の赦しの意識無く、霊的生命の湧き出ることを感じ無かった。そして彼の主長であったスタウピッツに問い、その指導の下に「パウロの言った言葉の意味を見つけ出そうと努力し、分かった事は、福音によって神の義は顕された。神はその愛と恵みによって私達を義とされることがわかったのです。実に『義人は信仰によって生きるべき』と書かれているとおりである。私はこれにより生まれ変わったように感じ、まるで楽園の扉が開放されたのを発見したようでした。」に到達したのです。
 私の場合はルーテルの様な献身も修行もせず、その舌と肉体は、人を傷つけ、自覚した罪の懺悔や悔い改めをしても、無自覚の罪は残りとても神に義とされるものではありません。ただローマの信徒への手紙3章20〜24節には、ただ主による贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるということが書かれています。
 この言葉のように罪の中に生きる私でも、神の恵みにより神に義とされ神様の前に立てるのです。
 「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマの信徒への手紙10章10節)
ここがこの聖句が「私の居場所」なのです。     
(おかばやし のぶお)

越谷教会月報みつばさ2007年7月号特集「私の居場所」より


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