今月の特集題 献身者を生み出す教会
![]() |
東京神学大学大学院2年生 三浦 永悟 |
新約聖書においては、イエス・キリストへの信頼が、信仰そのものが、従うという行動を伴っているとされています。それゆえに、従う覚悟のあるものだけが己を捨てて自分の十字架を背負って、「服従する」ということが、求められています。![]() 献身者という者は、我が命を賭けて、まさに「献身」して、主イエス・キリストというお方を指し示す者として立てられているということを思わされるのです。「献身」するということは、我が身を神様に献げるということですけれど、何よりもこのことによって、主イエス・キリストのみ業を指し示すのです。献身するということは、何をするのかということではなくて、それによって ![]() 私たちは、これから、指し示された道を歩んで行くわけですが、今に至る前に、神様の選びがあります。それは、喜びと希望に満ちています。なぜならば、一匹の迷える羊を見出した羊飼いのあのイエスの譬えのように、献身者は神の愛によって見出された自己の存在と生の目標とを、喜んで神に差し向け、さらに、人々をその同じ神の愛に招き入れる働きに与ろうとするからです。 |
(みうら えいご) |
![]() |
薩摩 雅宏 |
教会学校の役目とは、何でしょうか?子ども達に神様のことを伝えていくこと。もしできれば、その子ども達が洗礼を受けること。さらに教会学校の教師として立たされていくこと。もっと、突きつめていくと献身し、牧師となることでしょうか。![]() 最初の献身者の基君(もう、基君という年齢でもないのですが)は、私と小学科の頃からずっと一緒でした。まさか、小学科の頃一緒に礼拝中にふざけていた(今の小学科の子どもたちのふざけかたより知的に水準の高いものでした。あぁ、ふざけているには変わらないか・・・)彼が、いつから牧師を目指したのか気がつきもしませんでした。彼の牧師就任式に出席したとき、自分までが誇らしげに感じたのです。不思議な気分でした。 二人目の光さんは、そうだろうなと思っていました。兄よりまじめだったし・・・。 三人目の和夫君、四人目の工君。二人とも牧師の家庭ではなく、信徒の家庭です。私はすでに教会学校の教師をしていました。よほど、教会学校の頃に神様に導いたすばらしい先生がいたのでしょう・・・。 こう考えてみると、越谷教会学校は、四十年ほどの間に四人の献身者を与えられています。単純に計算すると、十年に一人の割合です。これが、多いのか少ないのかは分りません。しかし、少なくない数字であることは明らかであると思います。献身者を生み出す教会、そしてさらに献身者を生み出す教会学校は全国的に見てもさほど多くはないと思うのです。でなければ、牧師不足がこんなに叫ばれることもないからです。 ![]() 根付かせることです。その種に水をまいて、肥料を十分与えて育てる仕事は神様です。 永らく教会学校の教師をしていると、途中で教会学校に来なくなってしまう子がいます。でも、ある日突然クリスマスのキャンドルサーヴィスにひょっこり顔を出したりしてくれます。そんな時は、とてもうれしくなります。近所の人を招いて祝宴した放蕩息子の父親、迷子の羊を見つけた羊飼いの気持ちです。神様は、献身という素晴らしい業をなすと同時に着実に信仰の種を育てていてくださるのです。その一翼を教会学校が担っていければと思っています。 |
(さつま まさひろ) |
![]() |
越谷教会月報みつばさ2007年10月号特集「献身者を生み出す教会」より |
![]() |