今月の特集題  献身者を生み出す教会



主に従う
東京神学大学大学院2年生  三浦 永悟
 新約聖書においては、イエス・キリストへの信頼が、信仰そのものが、従うという行動を伴っているとされています。それゆえに、従う覚悟のあるものだけが己を捨てて自分の十字架を背負って、「服従する」ということが、求められています。
 神学者であるファン・リューラーという学者は、服従について信仰における立場からこう述べています。「主としてのイエスという特徴づけには、何か英雄的なものも含まれているでしょうか。……イエスはまさにあらゆる主たちの主であり、それゆえ私たちは、彼にすべての畏敬と服従、すべての崇拝と尊敬を帰すわけです。……私たちは兵士達が彼らの王に仕え、服するように、イエスに仕え、服従するために召され、義務付けられています。」この言葉は、彼が使徒信条について書いた本の中で、「われらの主、イエス・キリストを信ず。」の「われらの主」という部分を解説するときにこう述べています。私たちは、信仰を告白するときに使徒信条を述べ、礼拝において、いつも共に、「われらの主」と呼び掛け、主イエス・キリストに対する服従を公に言い表し、告白をしているのです。主イエスに服従し、忠誠を誓っているのです。主イエスは、百人隊長の部下である僕の話しをきいて、これほどの信仰を見た事がない、このように述べられました。使者たちが家に帰ってみると、部下の病はよくなっており、癒されていたのです。主イエスの言葉によって、彼の信仰が受け止められたのです。献身する、召命を受けるということは神様に生涯かけて服従していく、ということです。
 献身者という者は、我が命を賭けて、まさに「献身」して、主イエス・キリストというお方を指し示す者として立てられているということを思わされるのです。「献身」するということは、我が身を神様に献げるということですけれど、何よりもこのことによって、主イエス・キリストのみ業を指し示すのです。献身するということは、何をするのかということではなくて、それによってキリストが指し示されているかどうかということが問われるのではないかと思うのです。献身者、我が身を献げる者。この言葉は牧師、伝道者を指す言葉として使われることが多いと思います。しかし、礼拝する者、奉仕する者ならば、この献身者というのは、ただ牧師や伝道者だけを指すのではなく、全てのキリスト者が献身者として召されていることを示す言葉であると言って良いと考えるのであります。
 私たちは、これから、指し示された道を歩んで行くわけですが、今に至る前に、神様の選びがあります。それは、喜びと希望に満ちています。なぜならば、一匹の迷える羊を見出した羊飼いのあのイエスの譬えのように、献身者は神の愛によって見出された自己の存在と生の目標とを、喜んで神に差し向け、さらに、人々をその同じ神の愛に招き入れる働きに与ろうとするからです。    
(みうら えいご)

神様を思う気持ち
薩摩 雅宏
 教会学校の役目とは、何でしょうか?子ども達に神様のことを伝えていくこと。もしできれば、その子ども達が洗礼を受けること。さらに教会学校の教師として立たされていくこと。もっと、突きつめていくと献身し、牧師となることでしょうか。
 越谷教会学校は、今まで四人の献身者を生み出し、そのうち三人が牧師として立たされています。(残りの一人ももう間もなくでしょう)
 最初の献身者の基君(もう、基君という年齢でもないのですが)は、私と小学科の頃からずっと一緒でした。まさか、小学科の頃一緒に礼拝中にふざけていた(今の小学科の子どもたちのふざけかたより知的に水準の高いものでした。あぁ、ふざけているには変わらないか・・・)彼が、いつから牧師を目指したのか気がつきもしませんでした。彼の牧師就任式に出席したとき、自分までが誇らしげに感じたのです。不思議な気分でした。
 二人目の光さんは、そうだろうなと思っていました。兄よりまじめだったし・・・。
 三人目の和夫君、四人目の工君。二人とも牧師の家庭ではなく、信徒の家庭です。私はすでに教会学校の教師をしていました。よほど、教会学校の頃に神様に導いたすばらしい先生がいたのでしょう・・・。
 こう考えてみると、越谷教会学校は、四十年ほどの間に四人の献身者を与えられています。単純に計算すると、十年に一人の割合です。これが、多いのか少ないのかは分りません。しかし、少なくない数字であることは明らかであると思います。献身者を生み出す教会、そしてさらに献身者を生み出す教会学校は全国的に見てもさほど多くはないと思うのです。でなければ、牧師不足がこんなに叫ばれることもないからです。
 でも、越谷教会学校は特別な教会学校ではありません。何が何でも献身者を生み出そうとしているわけではありません。教会学校の役目は、幼い心に神様を信じる種を
根付かせることです。その種に水をまいて、肥料を十分与えて育てる仕事は神様です。
 永らく教会学校の教師をしていると、途中で教会学校に来なくなってしまう子がいます。でも、ある日突然クリスマスのキャンドルサーヴィスにひょっこり顔を出したりしてくれます。そんな時は、とてもうれしくなります。近所の人を招いて祝宴した放蕩息子の父親、迷子の羊を見つけた羊飼いの気持ちです。神様は、献身という素晴らしい業をなすと同時に着実に信仰の種を育てていてくださるのです。その一翼を教会学校が担っていければと思っています。 
(さつま まさひろ)

越谷教会月報みつばさ2007年10月号特集「献身者を生み出す教会」より


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