今月の特集題  主の身体なる教会



共に喜び共に泣く
豊川 昭夫
 ダイエットの為に始めたランニングは、もう5年にもなる。大会も10キロから始め、ハーフ、フルマラソン、そして昨年は75キロのウルトラマラソン大会へも参加した。今も毎日早朝に15キロを走っている。
 ところが先日、足の裏に一センチ四方にも満たない小さなマメが出来たら、もう10メートルも走れなくなってしまった。(走れなくなった数週間で、私の体は恐ろしいくらいに横に成長してしまったのだ!)。
 人間の体は歯一本でも痛ければ、痛いという神経が脳に伝わって変調をきたし体が動かなくなる。しかし、もしこの神経が脳に伝わらなかったらどうなるであろうか。そのまま動かしていたら死に至ることだってあるだろう。こう考えると人間の身体は良く出来ている組織と言ってよいだろう。
 逆に、先日イージス艦と漁船の衝突事故があったが、その際に国の上層部への連絡がひどく遅れたことが問題になった。こちらは健全な組織とはいえないものだ。
 聖書には、何箇所か教会の譬えとして人間の身体の事が出てくる。コリントの信徒への手紙一の12章25〜26節には「それで、体全体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と書いてある。
 前出の話の通り「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しむ」という組織は、いたって健全な良い組織と言えるだろう。
 では私自身は、他の教会員の痛みを自分の痛みとして捉えているだろうか。いや、実際は痛み自体をも認識していないことが多くあるのではないかと思う。
 私の属している伝道牧会委員会では、出来るだけ教会員の情報を集めようとしているが、限界もある。
 しかし、もっと弱さを出し合いながら、祈り合う身体でありたい。やはり基本は祈ることしかないのではないか。
 ところで、私自身の痛みは、教会員の皆様から随分と心配されている。先日も浦和レッズが開幕から二連敗したら「豊川さん、顔色悪いよ。大丈夫?」と。私は「大丈夫、大丈夫、最後は一番上になっているから」と強気の発言をしているが・・・・。
 一方「一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」のみ言葉は、越谷教会では、よく見られることではないだろうか。先週のイースターに受洗した教会学校の生徒に対して涙を流して教会学校の先生方は喜んでいた。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ書12・15)のみ言葉があるが、泣く人と共に泣けるが、喜ぶ人と共に喜ぶことの難しさが意外とある。他人の痛みを自分の痛みとして捉え、また共に喜び共に泣く、そんな人間関係の「主の御身体なる教会」であり続けたい。
(とよかわ あきお)

教会を信ず
棚橋千恵美
 毎週礼拝において使徒信条の告白をしています。その中で「聖なる公同の教会を信ず」と告白しています。主の御身体なる教会を信ずと告白することが出来るということが、私たちの力であり、慰めであり、希望です。「主の御身体なる公同の教会を信ず」と告白することができるということが、私たちの拠り所です。この告白をすることができれば、克服し得ない問題は何一つないのです。
 エフェソの信徒への手紙1章23節「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」教会はキリストの体です。頭はキリストです。
 小さな教会、コリント教会のように問題だらけの教会であったとしても、その教会の頭はキリストです。神と一つであるお方が、この大いなるお方が、小さな教会、問題だらけの教会の頭として結びついてくださったのです。切り離し得ない存在として、教会に結びついてくださったのです。
 どのように小さく、問題だらけの教会であったとしてもキリストの満ち満ちているところが教会です。それ故に「教会を信ず」と告白することができるのです。
 このキリストが満ち満ちている越谷教会で導かれて、伝道者として立てられて行きました。教会に満ち溢れているキリストによって導かれて伝道者になることができました。
 わたしにとって、このわたしが伝道者になれたということ事態が奇跡です。
 教会に満ち満ちているキリストに導かれました。「教会を信ず」と告白することができました。ですから、大好きな会社を辞めることができました。伝道者として導かれているという確信を教会の礼拝で得る事ができたのです。
 教会は建物ではありません。主を信じる群れ、洗礼を受けた人々の群れが教会です。色々な人が、教会を支える一人として招かれています。わたしも教会を成り立たせる一人として招かれています。わたしたち一人ひとりが、神が住まれる神殿となるように集められています。その中心に主イエス・キリストがおられます。主イエス・キリストの力が満ち満ちています。教会で生ける主に出会い、生ける主に導かれています。
 「主の御身体なる教会を信ず」との告白がわたしを支える力であり慰めです
(たなはし ちえみ)

越谷教会月報みつばさ2008年4月号特集「主の身体なる教会」より


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