今月の特集題  私の人生を支えてきた主の恵み



神の恵み
浅川 恵子
 「神の恵みを受けて、この世に生を受け恵みのなかで、生かされ育てられているのだよ」と、ことごとに聞かされてきた父の言葉です。
 幼稚園、日曜学校、そして教会員として育てられ、その越谷幼稚園での仕事を与えられ大きな恵みのなかで励んだのです。いつの間にか、その中にドップリとつかり、恵みさえあたりまえのように受ける様になっていました。
 結婚を機に退職し、ごく一般的な普通の暮らし、舅の介護、思いがけない夫の病の看病…。教会での日曜日の礼拝からも遠のき聖書を開くこともなく…。どこかへ逃げ出したい思いにかられたこともありました、でも必ずひも解かれ次の道が開かれ歩き出しているのです。どんな時にも、支え助けて下さる方が与えられ「恵みのなかで生かされている」と再確認させられるのです。教会を離れた暮らしの中でも「恵みのうちに生かされている者」と感謝の祈りです。(この頃の過し方から、夫が私の信仰者としての生き方を認め理解するという大きな恵みとなって伝わっていった様です。亡き後、夫の日記の中で記されていたのを見つけました)
 両親揃って教会の礼拝をまもる姿は私の信仰の支えであり導きとなっていました。
 母亡き後、父が介護状態になりつつあった時は、悩み、悩みの毎日でした。
ところがこのような時、夫が出張中、外地(中国)での突然の死、私にとって一体どんなことなのか悩み苦しみました。「夫の人生」を思いめぐらし、最愛の人と共に過した時間を思い返しながら、見事なほどの最後の幕引き、息子達も「お父さんらしい最後だったね」と。その人にふさわしい最後の時を与えて下さったのだと。この事実を「神のみ心」と受け入れ、守りのうちに次の道を与えて下さるということも学びました。
 夫亡き後、「愛の泉」で介護を受けながらの父を見つめ、その父の生涯とゆっくりと向き合う時間が与えられたのです。
 「愛の泉」施設での1年8ヶ月、その昔職員として仕事をしていた時と介護されている現実とまぜこぜになりながらも、神さまの恵みを山程受けて、召されていったのです。
 次から次へとおこる出来事、人生の道のりは神の計画された道を歩かされているのだということなのです。教会を離れたということも自分勝手な思い上がり、今こうして教会に連なり、穏やかな暮らしの中で毎週礼拝をまもることが出来ることに感謝です。
 父から娘、孫へと三代目も育ち行くこの時、「神によって生かされ、育てられているという恵み」、残された人生、日々の恵みを感謝しつつ、「神のみ旨のままに」と素直に祈る者でありたいと思います。
(あさかわ けいこ)

生活を支えてきた主の恵み
遠藤 孝
 夏野菜の収穫ができるようになってきました。ナスなど、わずかしか穫れないが、キュウリだけはたくさん収穫できます。
 人に上げられないキュウリの処分に困ることもあります。
 極端に曲がった物や傷等のキュウリは、家で食べるが、それでも残ってしまう。
 主に収穫の恵みを感謝する日々、その物を捨てるわけにはいかない。「もったいない」ので漬物にすることにした。
 今年は「おから漬け」をしています。
 豆腐屋さんでおからを購入し、塩と唐辛子をまぜおく。キュウリの間にそのおからを混ぜて漬けます。
 キュウリから出てくる水分をタオルに吸わせ、タオルを毎日取り替えたり、新たにキュウリを漬けたしたりして、古漬けをつくっています。
 おからがなくなったら、キュウリの塩漬けを始めようと思っています。昨年の古漬けキュウリを塩ぬきし、現在も食べています。
 キュウリと違った食感。美味い。食べ過ぎてしまう。
 重石が軽かったり・塩加減などで失敗し、一樽捨てることもあった。食べられる古漬けができたときは、嬉しくなる。
 日常生活の一端(古漬け)を紹介しました。日々の生活の小さな出来事でも、主の恵みの中に生かされている私であることに気づきます。
 恵みをあたえ、日々の生活を支えてくださる主に感謝し賛美します。
 「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」
           (ヨハネによる福音書1章17節)
(えんどう たかし)

越谷教会月報みつばさ2008年7月号特集「私の人生を支えてきた主の恵み」より


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