今月の特集題  主にある恵み



今、生きていることこそ
橋爪 協子
 テーマを何度も読み返し、その深さにずっしりと重みを感じている。
 クリスチャンホームに生まれ、両親の姿を見ながら教会生活を送ってきたが、未だにいい加減な、甘い、真剣味の足りない信仰生活を送っている。
 でも、祈ること、生きる力を与えられていること、何が一番大切であるかを教えられていること、それは信仰の賜物である。
 それを思う自分が今ここに存在していることそのものが「主にある恵み」と感じる。
 過去、戦争で多くの命が失われた。筆舌に表せない悲しみ、そして今なお世界の各地で戦争と、多様な原因で失われる命、その事実を知れば知るほど、学べば学ぶほど、生きている自分を主に感謝する。
 かつて仕事をしていた時、自分の考えが多くの同僚にわかってもらえなくて、悲しくて辛かった。職場に行くのが困難になった時も、神様がきっとわかって下さっていると自分に言い聞かせたものだ。
 家族に問題が起きた時、誰にも語れない愚痴 (祈りというにはほど遠い)を、神様に聞いてもらった。
 困った時の神頼みとはちょっと違って、神様は私のお友達って感じ。不遜かな。
 でも、それが今日まで信仰に支えられてきた私のありのまま。
 我が子の保育問題で困っている時、思い出す毎に涙溢れる忘れることの出来ない方、
もう懐かしい懐かしい、当時の牧師のパートナー、小海朗子先生に出会えたことも「主にある恵み」である。
 朗子先生に、幼稚園後の息子の保育をして頂いた。おかげで私は、安心して仕事を続けられた。息子がいつも口走っていた「おばちゃんご飯食べるう」は、生涯忘れない朗子先生との思い出である。温かいご飯の上に目玉焼きを逆さまにのせて、その上からお醤油をかけてぱくぱく。
 このような教会生活での交わりに加えて、他にも多くの人たちとの交わりがあって、交わりが交わりを呼び、シナプスがあちこちつながるように私に元気をくれる。
 若かった頃は、仕事や子育てに追われ、自分が可愛くて自分のことだけを考えて生きてきたけれど、ここまで生かされたからには、私への神様のご計画があるのではないかといつも考えている。私の命は、私だけの命ではないと思う。それはなんだろう、未だに見つからないが、これかな、あれかなと模索しつつ生きている。あと何年あるかわからない命であるが、神様に「ずっと探し続けよ」と命じられている実感がある。「主にある感謝」である。
慈しみ深く 友なるイエスは・・・
(はしづめ きょうこ)

越谷教会月報みつばさ2009年1月号特集「主にある恵み」より


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