今月の特集題  いのちの言葉



言うべき言葉は…
榎本喜美夫
 年が改まっての説教の中で、幼稚園児が死が怖いとの疑問をいだき、返答に窮した親ごさんが石橋牧師に相談に訪れたという話がありました。この課題に対して「人生に満足できれば死は怖くない」という説教内容だったように記憶しています。
 生を受けたものすべてが死を免れることは出来ませんし、説教内容のようなことは頭では理解できていても自分に当てはめて考えますと、最後の瞬間はどうなるのであろうかと思うことがあります。凡人として結論はもちろん出ておりませんが。
 生から死という一生、生きている限りは各人がであう場面は千差万別、一つとして同じものはありません。まさに「日の下に新しいものはない」(口語訳 伝道の書1章9節)です。クリスチャンであっても社会とのかかわりの中で生きていかなければならないわけですから、家庭・学校・職場・近隣関係等々、どう対応していくか、判断に迷うこといつもながらのことです。家族、友人、先輩など親しい方々に相談したり、また尊敬する人を念頭において、その方ならどう対処するであろうかとイメージしたりします。
 教会に連なっている私どもの場合は、先ず礼拝出席を守り、説教に耳を傾け、牧師に相談したり、苦しみや悩みを訴えたりすることにより、生かされている。一人だけの知恵や力ではないのだ、と神さまに依り頼むことで心の平安を得ることができましょうし、そうでありたいものです。
 信仰者として、神さまに選ばれてその恩寵の中に生かされていることを認識できるのは嬉しく、かつありがたいことと思いつつ歩みたいと思っています。
 そうした中での導かれている幸いの一つを体験的に記してみます。小さい時から人前で話すことが大の苦手で、授業や会合でも自ら手をあげての発言、ということからは遠い立場での生活をしてきました。しかし、いつも逃げてばかりはおられません。やむを得ず喋らなければならない場合も出てきます。(卑近な例では祈祷会、信徒奨励、壮年会などでの奉仕など)そうした課題をかかえて聖書を読んでいたとき、(大変曲解ではありますが)そうだ、これだという個所に出会いました。「…何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(ルカによる福音書12章11〜12節)
 当時としては革新的なイエスの教えに従い、守旧派の役人や権力者の前に引き出された時に、どう弁明したらよいかという対処方法のアドバイスなのですが、自分の場合勝手にこれをよりどころにすることにしたというわけです。
 今でも苦手意識は消えませんが、いろいろな場面でこの聖句に救われています。
(えのもと きみお)


インマヌエルの神
乙部栄次郎
 成長期を軍国少年として過ごした私はキリスト教のことは何にも知ることはなかった。強いて思い出せば、少年の頃救世軍が太鼓を叩いて野外伝道をしているのを聞いたことがあるが、当時日本の兵隊はカーキ色の軍服を着て格好が好いのに何でこの人たち陰気くさい黒い服を着て外国の神さまの話をしているのかと、あまり良い印象は残っていませんでした。キリスト教についてはその程度の認識しかなかった者が信仰の恵みに与かることの端緒となったのは兵役に服し、中国から終戦の一年後に復員したものの、鬱々として空しい思いで過ごしていたとき一冊の新約聖書を叔父が貸してくれ、初めて手にした聖書から「汝らのうち誰か思い煩いて身の丈一尺を加え得んや」(マタイ6章27節)とある山上の垂訓を読み、日ごろ抱いていた心の思い煩いにキリストがひとつの方向性を示してくれているように感じ、いつか機会があれば教会を訪ねてみたいという思いを抱いたことでした。然しそれも何時とは無く忘れて実際に教会に導かれたのは更に数年先のことで、偶然会社の先輩が知人からキリスト教の家庭集会へ勧誘をされているので序に私にも聞きに行かないかと誘われて同行したのが求道のきっかけとなり以来信仰を告白して今年で57年になりました。
 思えばそのとき誘ってくれた先輩は救いに至らず、序に聞きに行った私の方が信仰を与えられ救いに与かることが出来たとは何と幸いな事かと感謝の思いです。そう言えば聖書を読むことを私に勧めてくれた叔父も基督者ではなかったのに聖書を貸し与えてくれたと言うことも不思議なことで、神様が私のような怠惰な僕をもお選び下さった事に只只感謝するほかありません。
 今年84歳になり、顧みればこの世で経験する禍福を私も人並みにさせられて参りましたが、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」という第一コリント10章のみ言葉に支えられ励まされて参りました。「一羽の雀さえも父のお許しがなければ地に落ちる事は無い」と言われるマタイ10章のみ言葉にも深い慰めを戴きました。一昨年から私は草加市にあるキングス・ガーデンというキリスト教の理念によって運営されている高齢者福祉施設に老妻と共に移り住み、キリストにある同信の方達と共に日毎礼拝に与かれる生活に感謝しています。
 インマヌエルの神は私たちと共におられ、パラダイスに至る最後までお導き下さる方、との信仰に生きる者で在りたいと願っています。
(おとべ えいじろう)

越谷教会月報みつばさ2009年2月号特集「いのちの言葉」より


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