「身よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。 ・・・・彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。 もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 |
(ヨハネの黙示録 21章3節〜4節) 日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 |
21世紀を迎えた。この21世紀はどんな時代になるのだろうか。 どんな文明にも終わりの時がある。この近代文明も繁栄の頂点に達しているように思われる。 21世紀は衰退の道を転落して行くのだろうか。そのような厳しい時代となるのだろうか。 文明の終わり、歴史の終わりを見つめることは悲しいことだ。 しかし、聖書の信仰に生きる者は、終わりを見つめることは希望を見つめることだ。 それ故に、人間の歴史が衰退の道、滅亡の道を転落していったとしても、私たちには希望がある。 終わりに神がおられる、終わりに神が待っておられる。その終わりに救いの神が待っておられる。 ヨハネの黙示録には、新しい天と新しい地について、この新しい世界を新しいエルサレムとして 指し示している。新しいエルサレム(ヨハネの黙示録)には神殿がない。旧約聖書の歴史の中で イスラエルの中心はエルサレムであり、このエルサレムの中心は神殿だ。この神殿に神が住んで くださり、この神殿の至聖所に、年に1回大祭司のみが入ることがゆるされている。 しかし、新しいエルサレムには神殿がない。新しいエルサレム全体が巨大な神殿なのだ。 全ての者がこの神殿の中に、神がいます至聖所に迎え入れられると語られている。 旧約聖書で神を見た者はモーセ一人だ。しかも、それは後姿であった。人間は神を見ることは 出来ない。神を見た者は死ぬといわれているほど、聖なる栄光の神と人間とでは絶望的に距離がある。 しかし、新しい天と新しい地では、神を相見、神のおられる世界に共にいることが出来ると 語られている。この新しいエルサレム、新しい天と新しい地においては、「もはや死はなく、 もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と示されている。「死、悲しみ、嘆き、労苦」は人間から 生きる喜びや活力を奪う力として示されている。 人生の中で容赦なく「死、悲しみ、嘆き、労苦」が私たちに覆い被さってくる。 そして、これらは私たちから生きる喜びや活力や命を奪うものだ。 このような力はもはや力とはなりえない世界だ、古いものは過ぎ去り、神が「古い世界での涙」 をことごとく拭い去り、神の世界で命あふれて、喜びにあふれて、活力にあふれて神と共に住む ことが出来る世界が、歴史の終わりに私たちのおわりに待っていてくださるのだ。 現実の世界は衰退の道を滑り落ちているとしても、主にある私たちの未来は違う。 大いなる希望に向かって進む歴史の中に生かされているのだ。それ故に21世紀がどんな時代でも 希望をもって生きることが出来る。 |