「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」1月号より

神が待っておられる
-歴史の終わりに-



牧師 石橋秀雄

「身よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
・・・・彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。              
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 
(ヨハネの黙示録 21章3節〜4節)
日本聖書協会発行『新共同訳聖書』
                     

  21世紀を迎えた。この21世紀はどんな時代になるのだろうか。
どんな文明にも終わりの時がある。この近代文明も繁栄の頂点に達しているように思われる。 21世紀は衰退の道を転落して行くのだろうか。そのような厳しい時代となるのだろうか。 文明の終わり、歴史の終わりを見つめることは悲しいことだ。
しかし、聖書の信仰に生きる者は、終わりを見つめることは希望を見つめることだ。 それ故に、人間の歴史が衰退の道、滅亡の道を転落していったとしても、私たちには希望がある。
終わりに神がおられる、終わりに神が待っておられる。その終わりに救いの神が待っておられる。 ヨハネの黙示録には、新しい天と新しい地について、この新しい世界を新しいエルサレムとして 指し示している。新しいエルサレム(ヨハネの黙示録)には神殿がない。旧約聖書の歴史の中で イスラエルの中心はエルサレムであり、このエルサレムの中心は神殿だ。この神殿に神が住んで くださり、この神殿の至聖所に、年に1回大祭司のみが入ることがゆるされている。
しかし、新しいエルサレムには神殿がない。新しいエルサレム全体が巨大な神殿なのだ。 全ての者がこの神殿の中に、神がいます至聖所に迎え入れられると語られている。
旧約聖書で神を見た者はモーセ一人だ。しかも、それは後姿であった。人間は神を見ることは 出来ない。神を見た者は死ぬといわれているほど、聖なる栄光の神と人間とでは絶望的に距離がある。
しかし、新しい天と新しい地では、神を相見、神のおられる世界に共にいることが出来ると 語られている。この新しいエルサレム、新しい天と新しい地においては、「もはや死はなく、 もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と示されている。「死、悲しみ、嘆き、労苦」は人間から 生きる喜びや活力を奪う力として示されている。
人生の中で容赦なく「死、悲しみ、嘆き、労苦」が私たちに覆い被さってくる。 そして、これらは私たちから生きる喜びや活力や命を奪うものだ。
このような力はもはや力とはなりえない世界だ、古いものは過ぎ去り、神が「古い世界での涙」 をことごとく拭い去り、神の世界で命あふれて、喜びにあふれて、活力にあふれて神と共に住む ことが出来る世界が、歴史の終わりに私たちのおわりに待っていてくださるのだ。
現実の世界は衰退の道を滑り落ちているとしても、主にある私たちの未来は違う。 大いなる希望に向かって進む歴史の中に生かされているのだ。それ故に21世紀がどんな時代でも 希望をもって生きることが出来る。


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