「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」10月号より

党派的神

牧師 石橋秀雄

「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。神が御自分の民、
捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍りイスラエルは喜び祝うであろう。」
(詩編53編7節)
『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』

ある有名な神学者が「イエス・キリストの神は『不偏不党』の神ではなく『貧しい人』に対して、『党派的ですらある』と言っている。党派的である神、実はここに救いがある。
 詩編53編に「神はない、という人々は腐敗している」と2節で語られている。「神などない」という生き方が腐敗につながると示される。「神などない」と、神を神と思わず貧しい人を踏みつけている人にたいして「パンを食らうかのようにわたしの民を食らう」と記され、神が貧しい人の側の神であることが示されている。神は徹底的に貧しい人の神としてご自身を現している。
 しかし、「神が天から人の子を見渡されると『だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。』(4節)」と真に厳しい人間の現実が示される。この「背いた者に、腐敗した者に」神の裁きが下される。「骨をまき散らす」と6節に示されている。  神に裁かれて、骨が砕かれてまき散らされても仕方がない私たちの惨めな姿が示されている。
 神が党派的神でなかったら、とっくの昔に滅び去ってしまう私たち人間だ。しかし、神は貧しい人の側におられた。自分の惨めさを思い知っている人の側におられた。自分の弱さと敗れと罪の中に苦しむ人間の側にいてくださる神だ。無条件で貧しさと、弱さと、敗れと罪の中にいる人間の側にいてくださる神だ。
 主イエスは「骨を砕かれ、散らされる」私たちに対する罪の裁きを、自ら十字架で担って死んでくださった。そして、十字架の神は罪人の私たちを「わが民」と呼んで、罪の中から私たちを「連れ帰って」くださった。
 「どうか、イスラエルの救いが、シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう。」(7節)
 私たちの救いが主イエスの十字架から起こった。十字架の神は徹底的に罪人の側に、貧しい者の側にいてくださる党派的ですらある神だ。ここに私たちの幸いがある。この神の恵みの業を喜び躍り賛美したい。


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