「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」11月号より

最後にのこるもの

牧師 石橋秀雄

「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支 えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺 しないように計らってくださる。」
(詩篇55編23節)
『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』

  11月4日の日曜礼拝は、越谷教会創 立112周年記念と永眠者記念礼拝を行 なった。教会関係永眠者のご遺族の方々 が多数教会の礼拝に出席してくださった。
最後に残るものは何かということを特 に考えさせられる。愛する者が死の苦し みの中にある。「愛するものについて医 師から死が近いこと」を宣告される時、 人間の無力を思い知らされる。 どんな大きな働きをした人も、どんな に力ある業をなしたと見られる人も、最 後には、人間の無力を思い知らされる時 が来る。
自分の中にあった力が、病などではぎ とられていって、最後に残るものは何だ ろうか。そこで、なお力となるものが、 あるだろうか。 「真の宗教とは、神も仏もあるものか と思えるところから始まる」と遠藤周作 は言っている。 神も仏もあるものかという絶望的悲し み、苦悩、真の宗教とはそこから始まる。 ということは、なおそこに響く言葉、そ こでなおカとなる重みのある言葉を持っ ている宗教、それが真の宗教ということか。 詩編55編の23節は、そのような重みのある言葉 として、私たちに響いてくる。 詩編55編の詩人の現実は「神も仏もあるものか」 という悲劇が、記されている。
なんという現実を生きているのだろうか。 「わたしを嘲る者が敵であれぱ、それ に耐えもしよう。…わたしと同じ人間、 わたしの友、知り合った仲。楽しく、親 しく交わり、神殿の群衆の中を共に行き 来したものだった。」(13節〜15節) 自分の親しい友、一緒に神殿に礼拝し た親しい仲間、身内が自分の命を脅かし ている。自分の命を圧迫するものが、敵 であったら耐えられる。しかし、身内の 者だったらとうてい耐えられない。その 絶望の中にある詩人。もはや友もいない。 無力な、惨めな自分を人々の目にさらし ている。
「神も仏もあるものか」 その詩人、無力な自分をさらしている そこに響く言葉がある。 「あなたの重荷を主にゆだねよ、主は あなたを支えてくださる。主は従う者を 支え、とこしえに動揺しないように計らっ てくださる。」
全てを失った無力をさらす人の心に、 最後に残る言薬として響きわたる。死を 前にする人間に「あなたの重荷を主にゆ だねよ、とこしえに動揺しないように計 らってくださる。」


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