「主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。 あなたはわたしの助け、わたしたちの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。」 |
(詩編 40編18節) 日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 |
人生の中で泥沼にはまってしまって、もがけばもがくほど泥沼に引きずり込まれてしまう
という経験をすることがある。自分の力では泥沼から這い上がれない。詩編40編の詩人も、
この泥沼にはまり込んでもがき苦しみ、神に目を向けて叫んでいる。 「主にのみ、わたしは望みをおいていた。」(1節)と神に集中して叫んでいる。 そして、神はわたしの叫びに耳を傾け、叫びを聞いてくださったと感動して語っている。 神への叫びは神への讃美の歌に変わった。神は泥沼から引き上げ岩の上に立たせて下さった。 この神の不思議な業を、数知れない御計らいを証する。大いなる集会で彼は唇を閉ざさない。 大いなる集会で神を語りつづけた。しかし、この確信に満ちた信仰生活を再び揺り動かす問題が 覆い被さってきた。 「悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕らえられ何も見えなく なりました。その数は髪の毛よりも多くわたしは心挫けています。」(13節) 今のあの確信が厳しく問われている。大いなる集会で神への確信を語ってきた。 数知れない神の不思議な業、御計らいを証してきた。あの信仰が問われている。 その確信が揺り動かされている。詩人は罪の故に、悪の故に「何も見えなくなってしまった」のだ。 あれほど確信した神の業も見えなくなってしまった。詩人の心は揺れ動く、詩人の敵たちが 詩人の命を脅かし、彼は再び泥沼の中にはまり込んでいったのだ。彼は自分の貧しさを思い知った。 彼は身を屈めて再び神に叫ぶ。必死になって神の助けを求め、必死に叫んでいる。 詩人は自分の無力を思い知って見を屈めるのだ。 詩人は泥沼の中で、神の言葉を聞く姿勢が備えられていく。詩人は自分の無力を思い知って、 身を屈めるのだ。身を屈めて神の助けを得ることなしにはどうすることも出来ない自分であること を思い知る。 「自分の無力と罪を思い知ってみをかがめて祈る」信仰者に、再び神の大きな憐れみが注がれて いくのだ。「何も見えなくなった」と嘆いた詩人は、憐れみを受けて大きな讃美の声を上げる 詩人となり、かつての確信が今の確信となっていく。 神は生き生きとした信仰を、厳しい現実のただ中で常に呼び起こされる神であることが示されてしる。 |