「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」3月号より

今は喜んでいる

牧師 石橋秀雄

「しかし、気落ちした者を勇気つけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。」 
(コリント信徒への手紙二 7章6節)
日本聖書協会発行『新共同訳聖書』
                     

3月1日から3日間た韓国基督教長老会京幾中央老会(教区)を訪問した。
 今、韓国の社会問題の第一は、家庭の崩壊であると聞かされた。家庭が崩壊で家庭を失った子どもたちの問題が大きな課題だ。
 京幾中央老会は韓国安山市に「野花の咲く学校」を運営している。 この学校で50人の家庭崩壊の子どもたちを受け入れている。金牧師が早天祈祷会に出かけて行くと、8名の子どもたちが教会の軒下に寝ていたそうだ。その子どもたちを施設に連れて行くと、施設から逃げ出して教会に再び帰ってきて教会の軒下で寝ていた。金牧師は、その子どもたちと一緒に生活し始めた。それが「野花の咲く学校」の始まりだ。
 学校を中心に5名ずつに分け10の家庭を作り、一軒家に一人の母親役の教師と生活し新しい家庭づくりをしている。その1つの家庭を訪問した。新しい家庭の中で子どもたちの傷が癒されていることを強く感じた。子どもたちは明るくて可愛くて素直だ。この子たちと一緒に遊びたいと思った。
 金牧師と先生と教会の祈りの中で「子どもたちの傷が癒されている」「慰められている」ということを感じた。彼らは救いが必要だった。慰められることを必要としていた。そしてこの学校で慰められ、救われている。
 聖書の神は慰めの神だ。「どのような神を信じているか」と問われたら、「忍耐の神、慰めの神を信じている」と私たちは告白する。それが聖書の示す神だ。
 パウロは内憂外患、窮地に陥って「気落ち」していた。私たちも窮地に陥れられることがある。出口が見えないトンネルの中で苦しむことがある。
 その時、主は必ず慰めて下さるとパウロは方っている。慰められるということは救われるということだ。気落ちした者、窮地に陥れられている者に必要な事は、救われる事だ。そして、金牧師に救われ笑顔を取り戻した。
 どんな苦難の中にあっても、必ず慰められる。必ず救われる。十字架の主が「今は喜んでいる」(9節)と告白することができる者へと導いてくださるのだ。そして、「主は救ってくださった。慰めてくださった。今は喜んでいる」と感謝の告白うぃなすことが出来る。ここに神を信じる者の幸いがある。
                   




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