牧師生活31年が過ぎた。越谷教会20年、前任地鴻巣教会11年。神学校を卒業して最初の歩みは、私の原点となっている。
最初の年、小さな教会は裁判問題で揺れていた。この教会に青二才の世間知らずの私が赴任することになる。
しかし、裁判問題は、弁護士の努力で克服されていく。大きなことは裁判問題ではなかった。最初の一年に確信したことだ。
「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」コリントU12章9節)
主の力は弱さと破れの中にある教会の中で十分に発揮された。それ故に、このキリストが教会の頭として切り離しえない関係の中に、
身体としての教会を受け入れてくださる。このキリストの故に「教会を信ず」との確信に立つことが出来たことだ。
この「教会を信ず」との確信っを確認しつづける31年の牧師生活であった。
神との出会いの中で確信した事を、確認しつづける人生を歩むことが出来るというところに、キリスト者の幸いがある。
詩編42編と43編は一連の詩だ。この詩人は苦悩の中にある。この詩の中で「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」(詩編43編5節)この言葉が繰り返される。
絶望の底でこの祈りが捧げられる。しかし、詩人は祈りの中でかつての神との命あふれる交わりを思い起こす。
かつての確信は「神は必ず救ってくださる」という確信だ。神にどこででも「わが神」と呼びかけ。
親しく交わることが出来たあの礼拝の日々を思い起こす。そして「光とまことを遣わしてください」と祈るにいたっている。
神の御顔から注がれる光、この光は神の強い臨在を意味する。神は光を使わしてくださる神であり、
「救う」という約束を必ず果たしてくださる「まことの神」なのだ。この神への確信を祈りの中で「確認」し
「わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』」と、明るさの中で祈っている。
神は主イエスにおいて「光とまことの神」であることを明らかにしてくださった。
闇の中にあるものに光を注いで導き、まことの神は必ず救ってくださる。
あらゆる苦難から救ってくださるということを確信しつづける人生を、私たちは歩むことが許されている。
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