「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」6月号より

優しさと広さ
 牧師 石橋秀雄

「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、 と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと広さとをもって、あなたがたに 願います。」
(コリントへの信徒への手紙U10章1節)
日本聖書協会発行『新共同訳聖書』
                     

  私たちは人生の中で、大なり小なり様々な闘いをしながら生きていかなくてはならない。   対立者があり、反対者がおる、厳しく批判してくるものがいる。この闘いの中で事柄が 解決するということより、ますます複雑にややっこしくしてしまうということがある。
パウロは激しい非難攻撃の中で戦っている。「弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る。」 弱腰と訳されている言葉は卑屈と言う意味もある。実際に人々の前では卑屈になり、離れると 「強硬な態度」に出ると非難されている。面と向かっては何もいえないが、人のいないところ では強硬な態度をとる、人格的に信用できない人間だとパウロは非難されている。
数々の耐えがたい批判の中で、パウロが立ちつづけたところに注目させられる。 「キリストの優しさと心の広さをもって」とある。キリストの優しさと広さを空しくしては ならないという、強いパウロの思いが示される。相手を攻撃し殲滅(せんめつ)させることより、 パウロにとって重要なことは、キリストの優しさと心の広さを空しくしないということであった。
マタイによる福音書で「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」と主イエスは語っておられる。キリストは柔和な主だ。この主の柔和とは他者の重荷を背負うことを意味する。謙遜に、どこまでもへりくだって他者の重荷を負う主だ。
これがキリストの優しさであり、広さだ。優しいという字は人偏に憂いと書く。 憂いを持っている人が優しい人だ。憂いを知っている人が優しい人だ。
キリストはにんげんの憂いを知り尽くされている。人間の憂いを知り、それを徹底して 担って下さった。パウロの憂いを知っている。パウロの罪を知り、その憂いをキリストは 担って十字架にかかって下さった。このキリストの柔和、キリストの謙遜、十字架まで身を 低くしてくださったキリストの謙遜と広さ、この優しさを空しくしてはならないとパウロは 強く思う。敵対する人々、激しく非難する人々に「この優しさと広さ」を武器として闘うと 語られていく。
この武器は相手を殲滅する武器ではない。敵対する他者をキリストにつなげていく武器だ。 関係を断ち切る武器ではなく、関係が断ち切られたところで新たな関係を作っていく武器だ。 私たちも、キリストの優しさと広さを空しくしてはならない。キリストの優しさと広さをもって 闘う者となりたい。


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