「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」7月号より



地の果て

牧師 石橋秀雄
「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た…
神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。」
(詩編48編9節〜11節)
『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』

「地の果て」ということで思うこと、それは忘れ去られたところだ。 人間社会の矛盾がたまっていくところ、人間生活の不条理を思い知らされる ところだと思う。地の果て、それは人間の一番悲しいところと見ることもできる。 詩編48編では「来た、見た、逃げた」という言葉に注目させられる。 人間の闘いの最前線に神が来て、ご自身を示された。 それを見て、恐怖におののいて敵が逃げたと5節、6節に示されている。
神が来てくださったところ、人間の闘いの最前線、それは地の果てだ。もう自分の力では到底この闘いは闘いぬけないと絶望せざるを得ない最前線。 人生の敗北が決定的な地の果てに立つ人間。絶望的病、医学の限界を思い知らされるところ、人間の限界、自分の限界、 人間の不条理を感じさせる地の果て、そこに神の業が示される。 ここに神の業が現される。神の正しさが溢れて、神への賛美が湧き起こると示されている。
人間の最後の敵は死だ。死んで忘れ去られる。地の果て、それは死の絶望が支配するところ。 しかし、神の業はこの地の果てに示される。神の力はそこに現れる。
キ罪の力、死の力が吹き飛んでしまう。この人間の最大の敵が十字架の神の業の前に吹き飛んでしまう。 敗北を思い知るところで神の勝利が示され、神の救いと勝利に与ることができた。
「地の果て」この一番悲しいところで、一番大きな救いの業を見ることができる。一番悲しい、 寂しいところで一番大きな神の愛を知ることができる。それ故に、この地の果てにおいて神の賛美の声が湧き起こると示されている。
「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た」。
神の業を聞いていた。十字架の力を聞いていた。それを私たちも見たと告白し得る。 信仰の先人が確信した救いの業を私たちも確認することができる。
主は地の果てに来てくださった。罪と死の力は十字架の主の業を見て、逃げ去った(無力にされた)。
この主の業を私たちは見た。だから語り伝えよと詩人は訴える。

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