「主を頼みとして」
「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。」
(使徒言行録14章3節)
日本基督教団議長山北宣久先生とお話する時が、与えられた。
ユーモアがあり話題の豊富な先生だ。
阪神タイガーズの大ファンであることも有名だ。阪神の話をされながら、「楽天主義でいきたい」と語られた。すかさず、日本ハムファイターズの大ファンであるわたしは「楽天は敵です」と切り替えしたつもりだった。
相手はわたしより上だった。
「わたしは楽天主義でいきたい」と語られて、唸った。なるほど「楽天主義か」と考えさせられた。
「天を楽しむということだ」。
どのような困難な現実があったとしても、いや、あればあるほど「天を楽しむ」ことが出来るということが、神を信じる者の幸いだ。
パウロも「楽天主義」ではないか。
「パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。」と19節に記されている。
14章には伝道とは何かということが示されている。
福音を語ることによって、「大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。」(1節)とあるように、信じる者が与えられる喜びがある。しかし、一方、信じない者もいる。
強く反発し迫害する者は現れる。
イコニオンという町ではパウロの反対者が町の有力者を説得して、パウロとバルナバを迫害した。
パウロとバルナバは悪意がある中で「長くとどまった」と記されている。
パウロの伝道は命がけだ。
悪意が渦巻く中で、パウロはイコニオンに留まり「そこに長くとどまり勇敢に語った」と記されている。
「主を頼み」としていたからだ。
「主を頼みとする、主の業を頼みとする、天の業を楽しむことができる」。
これが、どのような迫害にあっても、殉教するということがあったとしても、福音に留まり、福音を語り、教会が歴史の中で進展していく力となった。
2010年の歩みが始まった。
この新しい年がどのような年になるだろうか。
逆風が吹き荒れて、前に進めないという事態が起こるかもしれない。私たちを打ちのめすような問題にぶつかるかも知れない。
しかし、「主を頼みとすることができる。天の業を楽しむことができる」。楽天主義で歩むことができる。
このことが、私たちを立たせ、生かす力だ。
越谷教会月報「みつばさ」2010年1月号より
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