「故郷を夢見る」
「わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」
(
創世記47章30節
)
族長たちにとって墓は、特別な存在だ。
アブラハムは墓を得るために人生をかけたと言ってもよい。銀四百シェケルという法外な値段で土地を買った。
墓は特別な場だ。それは、人生という旅をしてきたものが、その旅を終えて、安らぎを得る場である。アブラハムから族長時代は旅人として生活をする。安住の地をもたず、旅をし続ける人生だ。
自分の死が近いことを悟って、エジプトの宰相ヨセフのところに身を寄せる父ヤコブは、「わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」とヨセフに求めている。
ヤコブのただ一つの願いは「先祖と共に眠りにつくことであり、先祖の墓に葬られること」だ。
ヤコブにとって墓は自分の故郷として夢見る希望の地である。
「神の祝福を受けて、神と共にあって人生を歩み、神の祝福の中で、祝福された人生を歩んだ先祖と共に眠り、神の祝福の中にある墓に葬られる」ということがヤコブにとって、重要なことであった。
ヤコブにとっての人生の最大の目標は先祖たちが眠る墓に納められることだ。
墓に希望を持っている。
墓に人生の希望をおくことが出来るだろうか。
聖書は、墓に人生の希望をおくことが出来る世界をわたしたちに示している。
旧約聖書の族長たちで示される人生の目標となる墓、この墓は新約聖書において、大いなる希望を指し示す場となっていく。
墓は神が大いなる力を持って働かれる場となった。
愛する者が墓に納められたら、もう諦める以外にない。
「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイの信徒への手紙2章12節)
教会で洗礼を受けるということは「死と復活の体験」をすると言ってもよい。
主イエスと共に死に、墓に葬られ、主イエスの復活の命に与ることができる。
墓は大いなる神が、大いなる救いの御業をなす場となった。
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイの信徒への手紙3章3節)
わたしたちの人生で様々な問題にぶつかる。なかなか、この世の問題は手ごわい。行き詰ることもある。しかし、復活のイエスと共に、復活して「わたしたちの命は神の内に隠されている。」
それゆえ、神の国を故郷と呼び、夢み、人生の目標とすることができる。復活の主を信じる信仰で墓を見るとき、この墓は神の国、この本当の故郷に入る入り口なのだ。
越谷教会月報「みつばさ」2010年11月号より
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