みことばに聞く
    
「教会の一致」

 



「すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行なわれた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。」

(使徒言行録15章12節)



 教会の中に激しい意見の対立がある。
教会に激しい意見の対立があるとそれは教会的でないとか愛がないとか、躓いたとか言われてしまう。
 しかし、意見の対立があってよい、信仰の世界だ。自分の確信しているところがある。
母なるエルサレム教会からユダヤ人がアンティオキア教会にやってきて「割礼によらなければ救われない」と言って教え始めた。
 使徒言行録はエルサレム教会からアンティオキア教会に中心が変わっていく事を記していくが、その転換点が、この一五章の使徒会議である。
「割礼によらなければ救われない」、これはエルサレム教会の多くのユダヤ人信徒が強く持っていた信仰だ。
 この確信を克服することは難しい。
当時の聖書は旧約聖書だ。イスラエルの選びがその中心にあり、神に選ばれ、神の民とされたしるしとして「割礼」を受けることが求められた。
割礼を受けて神の民となる。
 この今まで信仰の中心であった事から、今まで支えであったことから自由になることは難しい。




 アンティオキア教会は異邦人世界の教会だ。
 神の業が異邦人世界にもなされ、信仰の門が神によって開かれた。そこにはユダヤ人も異邦人も分け隔てされない神の業によって救われた群れがある。
「主イエスの恵みによってのみ」救われた群れだ。割礼なしに救われた群れだ。
エルサレムから来たユダヤ人と激しい意見の対立がおこった。そして、エルサレムにパウロとバルナバがでかけてエルサレム使徒会議が開催される。
 激しい論争と対立がある。しかし、これを聞かされたら「静かになった」とある。
ペトロが語った。主によって異邦人の百人隊長コルネリウスの所に使わされた経験だ。
 コルネリウスは福音を聞いて信じて洗礼を受けて救われた。神は異邦人もユダヤ人も分け隔てされない。ただただ、主が十字架にかかり死んでくださったこと、これを信じて洗礼を受けたら聖霊が与えられたこと、この神の業が、神が働いてくださったという事実が語られたとき、人々は静かになったのだ。
 どんなに対立があり、激しい議論が戦わされても、これを聞いたら静かになる。この信仰の一致があるとき、恐れることはない。激しい議論もしてよし、対立もあって良い。
日本基督教団も激しく議論がなされ対立がある。
 心配なことは「静かになれない」ことだ。これを聞いたら静かになるということがない。静かになるべきところで静かになれない。これは危機的だ、信仰の一致がないからだ。日本基督教団信仰告白がある。教憲がある。信仰の一致はあるはずだ、しかし、これが犯されている。静かに聞くべき信仰がそこに表明されている。この信仰に立ち戻ることが教団の教会性の回復となる。
 それを聞いたら静かになるという信仰の一致があれば対立を恐れることはない。
対立の中で主は教会を整えてくださる。



  

  越谷教会月報「みつばさ」2010年2月号より




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