「夢」
「料理役の長は、ヨセフが解き明かしたとおり木にかけられた。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」
(創世記40章22〜23節)
料理役の長と給仕役の長が、過ちを犯し、ヨセフの獄に引き渡された。
この獄の中で、同じ夜に二人とも夢を見た。この夢には「それぞれ意味が隠されていた」と5節に記されている。
古代エジプトにおいても夢が重んじられていた。したがって夢の解き明かしは非常に重要な事柄であった。
獄の中でヨセフはこの二人に「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください」(8節)と語りかける。
ここの夢で示されることは、未来は誰の手の中にあるかということである。夢の解き明かしは神がなさることだ。すなわち未来は神のものだ。未来は計り知れない神の御手の中にある。人間の手の中にあるのではない。
給仕役の長と料理役の長が見た夢は、対照的だ。一方は獄から解放され、一方は悲惨な死を遂げることを意味する夢であった。
「料理役の長は、ヨセフが解き明かしたとおり木にかけられた。ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」(創世記40章22〜23節)
この情景は暗い、闇は深い。
料理役の長は木にかけられて殺されてしまう。「木にかけられる」とは残酷な処刑だ。
かれは罪の中に死んで行く。未来が神のものであるといわれるとき、このような残忍な処刑で殺される料理役にとっては、なんと残酷な神かと思え、神が分からなくなる。未来は神のものと言われれば言われるほど、神が分からなくなってしまう。
しかし、未来は計り知れない神の御手の中にある。
この深い、深い闇の中に木にかけられて殺される主イエスの叫びが響くのだ。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコによる福音書15章34節)
罪の中に死んで行く人間、捨てられて死んで行く人間、この受け入れる以外にどうすることも出来ないという現実の中に十字架が立ち、そして、絶望の叫びを主イエスご自身が叫んでくださっている。主イエスが木にかけられて、神に見捨てられて死んで行く最後のお方となってくださった。主イエスは殺されて墓に納められた。この墓から主は復活された。罪を赦すもの、罪の死から、神の復活の命を受け継ぐものへ人間を引き上げ救うために主イエスは復活された。
今、わたしたちの未来は復活の光の中に照らされている。復活の主の故に、わたしたちの未来は希望に満ちている。
越谷教会月報「みつばさ」2010年4月号より
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