「真の自由」
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちは
これに聞き入っていた。」
」
(
使徒言行録16章25節
)
「真の自由」とは、どういうことであろうか。「真の自由」とは何かと問われたら、「真の自由はこういうことだ」と明確に答えることが出来る人がいるだろうか。
「真の自由」ということを知らない、知らないから苦しいということができるかもしれない。
ウィルモンという聖書学者が「自由が存在し、それから自由になる」と言っている。
不思議な言葉だ。自由が存在し、それから自由になるというのだ。
パウロとシラスは捕らえられて鞭打たれ獄に投げ入れられている。
鞭で肉が引き裂かれ、激しい痛みの中で呻き苦しむパウロとシラスであるはずだ。
しかし、驚くべきパウロとシラスの姿が記されている。
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」
ここに、獄から、痛みから自由にされているパウロとシラスの姿がある。
パウロとシラスの口から出るのは呻きではなく賛美と祈りだ。
そして、暗い獄の中で、パウロとシラスの賛美と祈りを囚人たちが聞き入っていた。
暗い静かな獄の中に賛美と祈りが響きわたっている。
パウロとシラスの賛美と祈りは、喜びから導き出されている。
使徒たちは獄に投げ入れられ、鞭打たれたとき、「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き」福音を大胆に語ったと使徒言行録5章41節に記されている。十字架の主の苦しみに少しでも与かったことを喜んでいる。
主の十字架を使徒たちがどれほど強く、深く受け止めていたかが示される。パウロとシラスにとって、鞭打たれることによって主の十字架の苦しみに与かり、その罪の赦しと復活の希望を深く受け止めるものとなった。それ故に、獄の中でパウロとシラスは、激しい痛みと呻きが、賛美の歌と祈りになり、獄から痛みから自由にされている。主イエスの十字架と復活から示される救いが、人間を自由にする。獄の闇も、賛美と祈りの場となり、礼拝の場となり、囚人達の心を捕らえ、慰めを与えている。
獄の中にあってもパウロとシラスは自由だ。
福音の真理がパウロとシラスを自由にしている。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
(ヨハネによる福音書8章32節)
福音の真理が存在し、その真理によって人間は自由にされて生かされる。
越谷教会月報「みつばさ」2010年5月号より
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