みことばに聞く
    
「信仰の葛藤」

 



「父イスラエルは息子たちに言った。『・・・どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。』」

創世記43章11節〜14節



 飢饉が激しくなる一方で、先に買った穀物は食べ尽くして、再びエジプトへ穀物を買いにいかなければならない。
 しかし、そこには困難な事態がある。エジプトの宰相が末の弟を連れてこなければ、決して会わないというのだ。それは穀物を売らないということになる。
 しかし、今度は末の弟ベニヤミンを連れて行かなければならない。父ヤコブの嘆きは深い、ヨセフとベニヤミンは正妻ラケルから生まれた子であり、特別な存在だ。
 ヨセフはすでに死んだと父ヤコブは信じている。
 すでにヨセフを失っている、この上にベニヤミンを失うということがあってはならないのだ。
「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。」(14節)
 父ヤコブの祈りがある。心からの祈りがある。その祈りに父ヤコブの信仰が示される。父ヤコブは「全能の神であり、憐れみを施してくださる神だ」と信仰を表してきた。
 全能の神である。このお方が共にいてくださったら、恐れることはない、敵するものもいない。力強い人生を歩むことができるのだ。
 しかし、事態が変わらない、どうすることもできない現実の中で、神への信仰を表明し、神に祈りながら諦めてしまうのだ。
 ベニヤミンを失うことになったら「この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」(42章38節)
 ベニヤミンがエジプトに連れて行かれるこの嘆きは深い、絶望的だ。
ひたすら神に祈るヤコブだ。







  しかし、この現実はどうすることもできない。エジプトに穀物を買いに行かなければ、死ぬ以外にない、背にハラは変えられない。
 父ヤコブの諦めの言葉が祈りに続いて記される。
「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」
信じているのに諦める。全能の神に祈りながら諦めている。
 深刻な事態が続くと、わたしたちは待てなくなる、神が働いてくださる時まで待てない。もう待てないと神を信じながら諦めてしまう。
 この絶望的事態の中に父ヤコブが「父イスラエル」と呼ばれている。ここに希望がある。「お前はイスラエルだ。神と格闘して神の祝福を獲得し、『神と人に勝つ』を意味する新しい名前が神から与えられた」。ここに希望があると示されていく。
 今、待つことが求められる、信じて待つことが求められる。父ヤコブは諦めている。しかし、諦めているヤコブにイスラエルという名前が示されている。イスラエルのもう一つの意味は「神が支配する」ということだ。憐れみの神が愛をもってヤコブの人生を支配してくださっている。諦めた心がやがて大きな喜びにつつまれる。最愛の息子たちは生きていたのだ。


  

  越谷教会月報「みつばさ」2010年7月号より




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