みことばに聞く
    
   「否!の現実の中に」

 

「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ。」

(使徒言行録21章14節)

 「求めれば与えられる。たたけば開かれる。」と主イエスは、ルカによる福音書11章で教えられている。
 しかし、求めても与えられない、たたいても門が開けてもらえないという拒絶、「否」を突きつけられて立ちすくむこともある。
 この「否」は神からの「否」を思い知らされることもあり、この現実の社会の生活の中で「否」を思い知るということがある。さらに、自分自身で自分の事を「否」と否定してしまうことがある。
 この「否」についてどのように考えたらよいのだろうか。
 使徒言行録21章では、必死にパウロを説得し祈る信徒たちのことが記されている。
 エルサレムに向かって旅をするパウロをティルスの町の信徒たちが、そして、ユダヤから来た預言をするアガボが、必死に引き止めている。
 パウロがエルサレムに行く事は、大変危険な事だ。パウロの命をねらう者たちが、手ぐすねを引いて待ち構えている。
 しかし、パウロはどのような危険が待ち受けていようとエルサレムに行くと、その強い使命を明らかにしている。
 パウロを必死に引き止める信徒の群れの祈りと願いは聞き入れられない。
 「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、『主の御心が行われますように』と言って、口をつぐんだ。」(一四節)と記されている。「否」の現実の中に「主の御心が行われる」のだ。
 クリスマスに誕生して飼い葉桶に眠る幼子イエス。この幼子はこの世の拒絶の中に誕生する。ベツレヘムに泊まる宿屋はなく、洞窟の中で誕生する。
 主イエスの歩みは「否」から始まり、「否」で終わる。十字架で処刑されて墓に納められるのだ。
 主イエス・キリストの十字架の死を前にした祈りに注目させられる。
 「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書22章39節以下)。主の十字架に示されることは、神の「否」であり、またこの世からの激しい「否」が示される。この「否」の中に神の御心が示され、わたしたちの罪、神からの「否」を担い救い上げる主の御心が行われた。
 そして、わたしたちの生活においても同じことが言えるのだ。
 新しい年が始まった。神から、現実の生活の中で「否」を思い知ることがあるかも知れない。苦難の歩みになるかもしれない。しかし、その「否」の中で、苦難の中で神の御心が行われる。この確信の中で新しい年の歩みをなして行きたい。


  

  越谷教会月報「みつばさ」2011年1月号より




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