「『主よ、どうしたらよいでしょうか』と申しますと、主は、『立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる』と言われました。」
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(使徒言行録22章10節) |
「 パウロは「熱心に神に仕える」(3節)者であった。しかし、その熱心から行った事は、教会への大迫害の先頭に立って、「男女を問わず縛り、獄に投じ、殺すことさえした」(4節)のだった。
熱心に神に仕える者でありたいと思う。しかし、神に熱心に仕えながら神に逆らう業をしてしまうということがある。神への熱心から神に逆らう業をしてしまったら、その業を正すのは誰であろうか。真理にたっていると確信して行動している者を正すことは難しい。
神ご自身によって正され、導かれる以外には変えられることはない。
ダマスコに行く途上で、教会の信者を捕えに行く途上で、パウロの熱心が、神の熱心によって打ち砕かれる。
「突然天から強い光が射し込み周りを照らした」(六節)とある。
天からの強烈な光、それは神の熱心を示す光だ。神の熱心が人間の熱心を打ち砕く。神に対して熱心に仕えていると思っていたら、とんでもない、この神を迫害する業をしていたのだ。
神の御心を行っていると思っていたら、神の御心を踏みにじる業をしていた。神に最も近いと思えるところで、神を冒涜する業を行っていた。
神の強烈な光に照らされて、パウロは地面に倒れた。
このパウロに「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(7節)との主の言葉が響く。
熱心に神に仕えるパウロが、この言葉に打ちのめされる。
地面に打ちのめされたパウロは、「主よ、どうしたらよいでしょうか」と問う。この問いを問いうるという事、この問いを主に向かって祈ることが許されているというところに希望がある。重大な罪を犯したパウロを退けられない。
主は、「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」と言われた。赦しの主は、パウロを立ち上がらせている。罪から立ち上がって生きる道を示されている。
わたしたちにとってダマスコとはどこであろうか。
人生において打ちのめされて、地に倒される思いをすることがある。そこから立ち上がらせて、「すべてが知らされるダマスコ」とはどこであろうか。それは教会の礼拝だ。この礼拝で人間が生きるために必要な、すべてのことが神から知らされる。
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