牧師として最も緊張することは、葬儀の司式である。
今年は7名の逝去者の葬儀をさせていただいた。
愛する者を失うということは大変辛く、悲しく、絶望的な思いが湧き起こる。
しかし、その逝去者の信仰の故に、その信仰者の人生を見つめながら悲しみの
中に光を見出すことが出来る。絶望的な悲しみの中で、神の恵みが示されていく。 病気に敗北し、死を迎えなくてはならない絶望の中で死に勝つ道、 キリストの勝利に与かる道が示されていく。 まさに「あらゆる場合」に神の恵みを味わうことが出来るのだ。 四節「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」とパウロは言っている。 あらゆる場合に神の救いが、神の恵みが示されていく。それは使徒パウロが 伝道の業において得た確信である。 「死にかかっているようで、このように生きており・・・・・・・ 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、 すべてのものを所有しています.」 パウロは精魂尽き果てている。瀕死の使徒パウロの姿が、ここに示されている。 パウロは人間的に見れば「死にかかっている」「悲しんでいる」「物乞いのように、 何もない貧しさをさらしている」これほど哀れな姿はない。しかし、このパウロを 見つめていると、そのパウロの中に何かがある。パウロの中にキリストの命が注がれて、 キリストの恵みが、瀕死のパウロの中に溢れている。人間的には何ももっていない、 しかし、福音の力が、神の言葉が、パウロの中に充満している。 パウロは死にかかっているようで生きている。悲しんでいるようで常に喜んでいる。 無一物のようですべてを所有している。それ故にパウロは「苦難が誇りだ」(ローマ5・3) と告白する。 瀕死のパウロは瀕死の中で神の恵みを深く味わっている。それ故に苦難が誇りと告白する。 重い病の中で「もうどうにもならない」と絶望することがある。 しかし、瀕死のパウロが瀕死の中で「この苦難が誇りだ」と告白する世界がある事、 瀕死の中で神の恵みを深く味わい知らされる生ける神の業が示されている事、 この事実に私たちの心を向けるものでありたい。 |