「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」12月号より

あらゆる場合に全てを受け入れる

牧師 石橋秀雄

「わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、
あなたがたは自分で心を狭くしています。」
(コリント信徒への手紙二 6章12節)
日本聖書協会発行『新共同訳聖書』
 自分のこころが狭くなって苦しむということがある。心が狭くなって、他者を受け入れられない、受け入れなくてはならないものを受け入れられないで苦しむことがある。人生を歩む中で受け入れられないものが多すぎるとも言えるかもしれない。クリスマスに響くメッセージは、「到底受け入れられないものが受け入れられて、そのものと神が共にいてくださる」ということだ。
「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える」(口語訳ルカ2・10)と天使は羊飼いに伝えた。
「すべての人を照らすまことの光」(口語訳ヨハネ1・9)がキリストであることが語られている。
 全ての人の大いなる喜び、全ての人を照らす真の光だ。神の恵みは罪人にも、神に逆らう者にも、全ての者に注がれている。
 キリストは人間の弱さを受け入れ、罪人をも受け入れ、罪人のために死ぬ、その死も受け入れて十字架に死んでくださった。人間の受ける全ての苦しみを受け入れて死んでくださった。もちろん狭い心、狭くなる心も受け入れて、その狭い心の人のためにも愛して死んでくださったのだ。
 まさに全てが受け入れられている。受け入れられないものが受け入れられている。このキリストの愛が狭い心を広くする。広くされた心は受け入れられないものをも受け入れ、私たちを自由に生かす力だ。
 一人の牧師が膵臓癌で召された。目立たない物静かな牧師だった。彼はこの重い病を受け入れ、また、到底受け入れられない死も受け入れた。彼は重い病と共に淡々と生き、静かに召されていった。
 この牧師の死は、この牧師と共に歩み、この牧師のもとに生きた人々に深い感動と確信を与えた。それは神の国への確信、キリストの十字架の福音への確信である。この確信が、この牧師の心を広くし、到底受け入れられない病を受け入れ、到底受け入れられない死を受け入れ淡々と静かに生き抜かれた。
 私たちの心はすぐ狭くなる。受け入れられない現実の中で狭くなる。その狭い心を十字架の主は受け入れ、繰り返し御言葉で問いかけ、御言葉で私たちの狭い心を打ち破って、全てのものを受け入れる広い心を養って生かして下さっている。

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