「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」10月号より

下から 引き上げて下さる主

牧師 石橋秀雄
「イェスは、 『水を飲ませてください』と言われた。」
(ヨハネによる福音書4章7節)
『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』

 石のように硬く閉ざされた心。厳しい 生活の問題、悩み、苦しみの中で人生を あきらめ、心が渇ききって生きる人に、 主イエスは出会われる。しかも、その出 会い方は、その人よりさらに深く痛み、 渇く者として出会われる。この出会いの 中で、石のように硬く閉ざされた心の扉 が、内側から主イエスによって開かれて いく。
 夜通し歩いて昼ごろ、ヤコブの井戸と 呼ばれるところに到着した。この地域の 日中の暑さは相当なものだ。主イエスは 疲れきり、渇ききって井戸のそばにしゃ がみこんでいた。
 この真昼に、サマリヤの女が水を汲み に来た。猛暑の真昼に水を汲みに来る者 はいない。水汲みは重労働だ。他の女性 たちは涼しい夕方に水を汲みに来る。人 が集まる時間を避けて、このサマリヤの 女は水を汲みに来た。過去に正度結婚し、 今は六番目の男と生活しているが結婚は していない。
 この女性は奪われ続ける人生を歩んで 来た。奪われ裏切られる人生を歩み、し かも、この時代の、この社会では、人々 にはとうてい受け入れてもらえない生活 をして来た。人々の冷たい視線をいつも 浴びながら生きて来た。水を汲みに来る 時、それは目分の生活の惨めさを思い知 る時だ。 この女性の一日の生活の 中で一番辛く、一番疲れる 時だ。この時、主イエスは この女性よりさらに疲れた 惨めな姿でこの女性に出会 われる。
 ユダヤ人がサマリヤ人に 水を求めることなどありえ ない。サマリヤ人に対する ユダヤ人の憎しみは、激しいものであっ た。石のように硬く閉ざした心。この女 性の心の扉を開いていくのは、さらに惨 めな姿をさらす主イエスによってだ。 主イエスは身を低くして水を求めてい る。この主のお姿は、人生に疲れを覚え ている人、自分の惨めな人生をはかなん で生きている人、大きな苦しみの中にい る人の慰めだ。
 人間のあらゆる苦しみを知るお方とし て、この女性の苦しみと痛みを本当に分 かる主として、サマリヤの女に出会って いる。しかも一日の生活の中で、一番辛 い人生の惨めさを思い知らされるところ で、一番疲れるところで主イエスは出会っ ている。
 サマリヤの女は「渇ききって、疲労困 燈している者」に、水を与える者、のど の渇きを癒す者として向かう。そこから 対話が始まる。
 主イエスの業は上から引っ張り上げる ものではなく、下から持ち上げていく業 だ。痛み、疲れ、苦しむ人をそのまま持 ち上げて下さる主だ。
 今、疲れて、のどが渇いてしゃがみこ んでいるイエスが、「真の水、決して渇 かない命の水」を与えることがおできに なる方であることが、サマリヤの女との 対話の中で示されていく。彼女の問いと 主イエスの応答は的外れだ。この的外れ の応答をも受け止められて、永遠の命の 水を知り、受けるものへと主は下から引 き上げて下さる。

    

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