「イエスは言われた。『それは、あなたと話しをしているこのわたしである。』」
|
(ヨハネによる福音書4章26節) 『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 |
私たちは人生の中で様々の渇きを覚えながら生きている。喉が渇いたら水を求
め、人間的に渇きを覚えたら、その渇きを癒してくれる友を求める。聖書は、心
の奥にある渇きを真に癒すお方を指し示す。 主は井戸の側で待っておられる。真昼の炎天下、この時間に水を汲みにくる者 などいない。待っても無駄だ。しかし、主は無駄と思える状況の中でなお待って おられる。 サマリヤの女は人目を避けて水を汲みにやって来た。彼女は一日の生活の中で 一番つらい時間に、目分の人生の惨めさを思い知り、なんの希望も見い出し得な いところで主イエスに深く出会う。主はいきなりこの女性の心の痛みに目を向け て問う。 「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(26節) 今まで5人も夫を代えた。ユダヤ人の間では3回までの結婚は認められた。サマ リヤの女の生きる社会的環境では5回まで認められていたようだ。しかし、6回目 はもう認められない。彼女は社会が認めない生活をしていた。6番目の男性とは 同棲していたのだ。それ故、人々の冷たい視線の中で生きなくてはならなかった。 この女性は人から裏切られ、奪われる生活を重ねながら、人間不信の生活になっ ていたと思われる。その心の渇きの癒しを求めて結婚を繰り返してきた。しかし、 心が満たされる事はなかった。今本当に癒しが与えられる場、サマリヤの女の心 の深くにある渇き、その渇きが癒される場に主は導いていかれる。すなわち礼拝 へと導かれる。 当時、神への礼拝は神殿でなされていた。神殿に神がいてくださると信じてい た。しかし、救い主、メシヤが来てくださるとき、どこででも礼拝をささげる事 が出来、この礼拝において神の命が注がれると語られる。この救い主について、 主イエスは「それはわたしである」と非常に強い言葉で宣言されている。 主イエスご目身が救い主であり、神の命であり、永遠に渇く事のない命の水を 与える事がお出来になるお方だ。この救い主に、どこの国の、どこの町でも出会 い、礼拝をささげる事が出来ると語られている。 サマリヤの女の渇きはこの礼拝においてこそ癒される。この礼拝において主イ エスは私たちに出会い、私たちの心の渇きを癒してくださるのだ。 |