「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」11月号より

それは わたしだ

牧師 石橋秀雄
「イエスは言われた。『それは、あなたと話しをしているこのわたしである。』」
(ヨハネによる福音書4章26節)
『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』

 私たちは人生の中で様々の渇きを覚えながら生きている。喉が渇いたら水を求 め、人間的に渇きを覚えたら、その渇きを癒してくれる友を求める。聖書は、心 の奥にある渇きを真に癒すお方を指し示す。
 主は井戸の側で待っておられる。真昼の炎天下、この時間に水を汲みにくる者 などいない。待っても無駄だ。しかし、主は無駄と思える状況の中でなお待って おられる。
 サマリヤの女は人目を避けて水を汲みにやって来た。彼女は一日の生活の中で 一番つらい時間に、目分の人生の惨めさを思い知り、なんの希望も見い出し得な いところで主イエスに深く出会う。主はいきなりこの女性の心の痛みに目を向け て問う。
「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(26節)
 今まで5人も夫を代えた。ユダヤ人の間では3回までの結婚は認められた。サマ リヤの女の生きる社会的環境では5回まで認められていたようだ。しかし、6回目 はもう認められない。彼女は社会が認めない生活をしていた。6番目の男性とは 同棲していたのだ。それ故、人々の冷たい視線の中で生きなくてはならなかった。
 この女性は人から裏切られ、奪われる生活を重ねながら、人間不信の生活になっ ていたと思われる。その心の渇きの癒しを求めて結婚を繰り返してきた。しかし、 心が満たされる事はなかった。今本当に癒しが与えられる場、サマリヤの女の心 の深くにある渇き、その渇きが癒される場に主は導いていかれる。すなわち礼拝 へと導かれる。
 当時、神への礼拝は神殿でなされていた。神殿に神がいてくださると信じてい た。しかし、救い主、メシヤが来てくださるとき、どこででも礼拝をささげる事 が出来、この礼拝において神の命が注がれると語られる。この救い主について、 主イエスは「それはわたしである」と非常に強い言葉で宣言されている。
 主イエスご目身が救い主であり、神の命であり、永遠に渇く事のない命の水を 与える事がお出来になるお方だ。この救い主に、どこの国の、どこの町でも出会 い、礼拝をささげる事が出来ると語られている。
 サマリヤの女の渇きはこの礼拝においてこそ癒される。この礼拝において主イ エスは私たちに出会い、私たちの心の渇きを癒してくださるのだ。



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