「みことばに聞く」

教会報「みつばさ」12月号より

 驚きと感動
 
--水がめを置く--
 


牧師 石橋秀雄
「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人
がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』」 

(ヨハネによる福音書4章28〜29節)
『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』

 ひとりの人の重さが、主イエスのお働きの中に示されていく。
 サマリアのヤコブの井戸の側に主イエスは旅の疲れと空腹と喉の渇きの中で座り込んでおられた。そこに、サマリアの女が水をくみに来た。正午という、もっとも暑さの厳しい時に水をくみに来るものはいない。サマリアの女性にとって水くみの労働ほど苦しいときはない。人目を避けてこっそり水をくみにやってくる。彼女は心の中に深い傷を持ち、癒しがたい苦しみを背負って生きていた。
 水をくまなくては生活できない。しかし、この水くみの時間ほど自分の惨めさを思い知る時はない。夕方の涼しい時間には、水をくみに来ることができない。人々の冷たい侮蔑の視線を浴びながら水をくむことは、耐えられなかった。
 この女性と主イエスは対話される。空腹も喉の渇きも疲れも忘れて主イエスは、真剣に、この女性の心の深みにある痛みに真正面に目を向けて対話される。
 主に出会って、このサマリアの女は「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。』」(ヨハネ福音書4章28〜29節)「水がめ」をおいて町に飛んでいくのだ。
 自分の生活と生きる惨めさと苦しみの象徴である「水がめ」を主イエスのもとにおいて町に飛んでいく。自分の生活と生きる惨めさ、苦しさを預けることができるお方にこの女性は深く出会ったのだ。自分の重荷を主の前に置くことが出来る。
 このサマリアの女は自分の生活の問題から自由にされて町に向う。 自分を軽蔑していた人々の中に、侮蔑した人々の中に飛んでいく。
 この女性は驚きと感動をもって語る。「さあ、見に来てください。・・・・・この方がメシアかもしれません。」(29節)サマリアの町の人々は驚いている。この女性を変えた力に驚き、町の人々は主イエスのところにやって来た。
 サマリアの女、このひとりの人の救いが、サマリアの町の救いに広がって行く。ひとりが救われることの重さを考えさせられる。
 驚きと感動が人々の心を動かす。
 サマリアの女の主イエスに出会った感動は、わたくしたちの経験するところでもある。
 驚きと感動がある群れ、それが伝道する教会だ。



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