「人は言う。『神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。』」 |
(詩編58編12節) 『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 |
勝利者が進軍するその道にどれほどの血が流され、無惨に引き裂かれた屍がころがっていることだろうか。
しかも、その戦いは神の名が前面に出る戦争だ。 神の名、絶対者の名の下に行う戦争だ。 従って、それは聖戦となり、残酷な戦いとなる。このような戦いが厳しく裁かれている。 古代社会の状況で語られた聖書は、今日の問題でもある。アフガンでどれほどの血が流されただろうか。 「しかし、お前たちは正しく語り、公平な裁きを行っているというのか」(詩編58編2節)神の前に人間の 正しさが厳しく問われている。人間は正しいと思うことで残忍になる。その正しさが問われている。自分たちの 側の正しさがなければとても人の命を奪うことはできない。その人間の正しさが問われている。 私たちの、人の子らの考える正しさは、一部分の正しさでしかない。別の視点から見ると間違いだらけ ということがある。しかし、その一部分の正しさを絶対化して、神の名さえ用いて、争いをする。残忍な殺薮が 繰り返されている。 このような現実の中に身をおいて、命が脅かされているとき、心に広がるのはどのような 思いだろうか。第二次世界大戦後の虚無主義の思想家のように、神は死んだと言ってしまうかもしれない。 しかし、詩人は断固として告白している。「神はいます。」どのような現実の中にも「神はいます」と 告白する信仰者の告白が私たちの心に突き刺さる。 人生の実を結ぶ力はなんだろうか。武力だろうか。人間の力だろうか。武力と人間の力の限界を私たちは 思い知らされている。 「神に従う人は必ず実を結ぶ」と告白されている。 この確信が、苦難の中で信仰者を支える力だ。なぜならば「神はいます」「神は生きています」からだ。 しかも、十字架の主は、人間の罪の底、残虐な十字架の死の中に身をおかれて、残虐な死を死なれる中で、そこに 神の愛の光があり、どんな現実の中にも「私はあなたを見捨てない。「わたしは生きている」と語りかけて下さっている。 |