「人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが、あなたは我らを導き出して豊かな所に置かれた。」 |
(詩編66編12節) 『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 |
大きな手術を前にした信徒と共に詩編66編の御言葉を読み祈った。 彼は語る。 自分の人生を揺るがす問題が、何度も覆い被さって来て苦しんだ。しかし、振り返ってみるとその大問題の一つ一つの中に、神の導きを感じ問題を通して養われた。その神の御手の中にあることを信じて手術に向かうと語った。 詩編66編の詩人は「神の恐るべき御業」(3節、5節)を見つめて神を讃美している。 神がイスラエルの歴史に示された「恐るべき御業」に心を向ける。エジプトの強制労働に苦しんでいたイスラエルの民を神は救い出し、数々の力ある業を持って荒野の旅を導かれた。 この過去の出来事が今の詩人の生きるカとなっている。 神は魂に命を得させ、足がよろめくのを許されない。(9節) 荒野の旅で水がないと言っては、よろめき、パンがない、肉がないとイスラエルの民はしばしぱよろめいた。しかし、その度に神は民を導き「足がよろめくのを許されない神」であることを示された。 この「恐るべき御業」が詩人の力だ。 「人が我らを駆り立てることを許された。」イスラエルは出エジプト以後においても、再び国を失う経験をするが「神が許された」「神の業だ」と言っている。 火の中、水の中を通るという激しい苦悩を人生の中で何度も経験した。 その苦悩は「神の業だ」と詩人は語るが、この詩人のようには、とても言えない。今、大きな病、苦悩、今、火の中、水の中にいる。それを「神の業」とはとてもえない。 しかし、「火の中、水の中」を通って「足がよろめくのを許されない神」「必ず豊かなところに置かれる神」であることを知らされた。神の「恐るべき御業」が小さな民イスラエルに示され、詩人に示され、そしてこのわたしに示されたことを知った時、「火も水も神の業だった。この豊かな救いに導く為に神が働かれた」と告白できるのだ。 手術を前に、信徒は「詩編66編に励まされた」と語った。 この病、とても神の業とは言えない。神の業なら大きなつまずきとなる。 しかし、「神の業」として受け入れた時、手術を前に、不安な心に平安がふくらんでいった。 |