「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を 信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 |
(ヨハネによる福音書3章16節) 『日本聖書協会発行『新共同訳聖書』 |
この御言葉は小福音書と呼ばれている。新約聖書の中心、そのメッセージがこの御言葉の中に示されている。 神は「世」を「この世」を愛の対象とされ、全存在をかけて愛してくださった。この世とは、何と云う世だろうか。 理想的世ではない。神の前に理想的世が求められ、その世を愛するということであれば、救いはない。 神が愛の対象とされるのは、理想の世ではない。そうではなく神を裏切り続ける歴史を重ねている世である。 神の御心を踏みにじり続けている世である。それはまた私たちの現実でもある。 私たちの生活も、神の前に惨憺たるものとなっている。 神の前に罪を重ねる私たちだ。 「一人も滅びない」為に神が働かれた。全てのものが、罪のどん底にいる私たちであっても、神はその救いの為に全存在をかけられている。 「独り子をお与えになったほどに」とある。まさに身を引き裂く愛だ。 「一人も滅びる」ことがないように、全てのものが永遠の命を得るために、神ご自身がその身を引き裂いてくださった。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」(ヨハネ黙示録21章6節)。価なしに、無条件にただ信じる者に神の豊かな命の泉から、命の水を飲ませると記されている。 私たちは、人生の中で何度も渇きを経験することがある。 人間関係のゆがみの中で、心が渇ききるということがある。 病や様々の問題の中で、激しい心の渇きを覚えて苦しみ、絶望することがある。罪の赦しとさらに私たちの心の渇きを癒す為に、主は存在をかけ、身を引き裂いて愛し働いてくださった。 キリストの十字架の中に、その全存在をかけて、身を引き裂いて愛して くださる神の愛が、強烈にしめされている。 |